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M子さん、38歳の仕事と結婚の行き詰まり
ー生かされてる医学による解決方法ー

​(生かされてる医学サポート倶楽部では、毎週、動画による解説を行っています。)



M子さんの問題は、心身ともに疲れ切って、うつ状態となり、会社を休職しているということです。大変仕事がよく出来る方です。一方、結婚もして子供も欲しいという気持ちもあります。

4人兄弟の長女です。親は、下の子供に手がかかっていました。親からは、しっかりとしたお姉ちゃんであることを求められました。

親の愛が欲しい自分がいます。親の愛を得るには、しっかりと生きるという親の希望を果たさなくてはなりません。仕事も立派にしないといけません。そのために懸命に頑張って仕事をしてきましたが、だんだんと、成果を上げられなくなり苦しいです。

一方、結婚や子供も欲しいのですが、その理由の一つには世間体があります。親が世間体を気にしているからです。また、親や子供の笑顔を見たいという気持ちもあります。老後の孤独が辛いというのもあります。

ただ、仕事は続けたいです。仕事との両立ができるかと心配です。

このような状態が続き、最近、疲れ切って、仕事にもミスが起こり、ついに休職する状態になりました。なんとか職場復帰をしたいと思うのですが、焦るばかりでさらに気力がなくなり、どうして良いかわかりません。不眠になり、頭が重く、肩こりや全身の疲労感があり、食欲もありません。

M子さんの問題点を解決するための講義

全11回

第1回

皆さん、こんにちは。本当の自分を生きるための四つの方法について、話を進めていきます。今回はこころ分析の第1回として、悩みの原因を明らかにする方法の一つである「自分分析」を取り上げます。

自分分析を実際にどのように使っていくのか、M子さんの仕事と結婚の行き詰まりという問題を例に見ていきます。M子さんは38歳の女性です。心身ともに疲れ切ってうつ状態となり、会社を休職しています。

休職に至るほど大変な状態です。この方は仕事が非常によくできる一方、結婚して子供も欲しいという気持ちを持っています。4人きょうだいの長女で、一番上のお姉さんです。

そのため、親は下の子供たちに手がかかり、M子さんには、しっかりしたお姉さんであることを求めてきたようです。一方、M子さん自身の中には、親の愛が欲しい自分がいます。

親は、M子さんにしっかり生きてほしいという願いを持っています。親の愛を得るには、その希望を果たさなくてはなりません。当然、仕事も立派にしなければなりません。そのため懸命に仕事をしてきましたが、次第に成果を上げられなくなり、苦しくなってきました。

一方、結婚して子供も欲しいという気持ちがあります。その理由の一つには世間体があります。親が世間体を気にしているからです。M子さん自身にも、親や子供の笑顔を見たいという気持ちがあります。また、老後の孤独がつらいという思いもあります。

ただし、仕事は続けたいと考えています。問題は、仕事と結婚・子育てを両立できるかどうかという心配です。このような状態が長年続き、最近では疲れ切って、仕事にもミスが起こるようになりました。

そして、ついに休職する状態に追い込まれました。それでも何とか職場に復帰したいという気持ちはあります。しかし焦るばかりで、さらに気力がなくなり、どうしたらよいのかわからなくなりました。不眠となり、頭が重く、肩こりや全身の疲労感があり、食欲もないという身体症状まで出てきました。

では、どうしていけばよいのでしょうか。まず、悩みの原因を明らかにすることが非常に大切です。心が無秩序に漂っているわけではありません。正常心理である以上、心は規則正しく動いています。

特に、小さいときの親との関係によって作られた原因が、その後も心の中で繰り返し回り続けていることは非常に多くあります。したがって、その原因を明らかにする必要があります。それをしなければ、リバウンドを繰り返すだけになってしまいます。

ただし、そのためには、きちんとした方法が必要です。そこで今回は、こころ分析の中の「自分分析」という方法を使います。まず自分分析を行い、さらに次回には「新型ストレス」という分析を加えて、M子さんの悩みの原因を発見していきます。

悩みの原因を発見するだけでも、気持ちは大変楽になります。そのうえで、さらに根本解決の方法へと進むことができるようになります。ここから自分分析に入ります。

「自分」を分析してみると、実にたくさんの自分が存在しています。ここには十個の自分を並べています。この図を一度に見るだけでは、複雑で嫌になってしまう方もいるかもしれません。

そこで、いくつかに分けて説明します。まずNです。これらの記号は便宜上つけたものであり、記号そのものに大きな意味はありません。Nは「評価をもらうために良い子になる自分」です。愛や評価が欲しいために良い子になり、評価をもらおうとする子供の部分です。このような自分は当然存在します。

次はA、「ご飯のために自分を抑えて社会適応する自分」です。食べていくためには社会適応をしなければならないので、自分を抑えて社会適応する自分がいます。

次はT、「快楽したい自分」です。快楽を求めたい自分は当然存在します。

次はW、「自由気ままに生きたい自分」です。自由気ままに、楽しいことをして生きたい自分も大いに存在します。ただし、その強さは性格によって一人ひとり異なり、多い人も少ない人もいます。他の自分についても同様です。

さらにK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、すなわちプライドの自分があります。これは非常に多く見られ、本当につらいものになり得る自分です。このKについては、後で詳しく見ていきます。

次は受身的なKです。これは、「自分の価値を認めたうえでの評価や愛が欲しい自分」です。「認めさせたいなどとは思っていない。ただ、私の価値を認めたうえで評価や愛が欲しい」と考える自分です。表現は穏やかですが、「自分の価値を認めたうえで評価してほしい」ということですから、自分の価値を示し、認めてもらわなければなりません。その意味で中身はKと同じです。

ただし、受身的で表現がおとなしいため、これをPKと呼んでいます。実際には、はっきりしたKよりも、このPKの方が圧倒的に多いと思います。

次はS、「人の笑顔を見たい自分」です。これは一見とてもよい自分ですが、ほとんどは自分のために人の笑顔を見たいというものです。ただし、その中には一部Yuが含まれています。その理由は後で説明します。

次はF、「本当の自分とは何かわからないが、本当の自分を生きたいという願いを持っている自分」です。これは、この講義の大きなテーマです。本当の自分とはよくわからない。しかし、本当の自分を生きたいという願いはある。その自分をFと呼びます。

次はYu、「ふとした優しさが好きな自分」です。これは無条件の優しさ、すなわち見返りを期待しない優しさが好きな自分です。このような優しさは、とてもよいものです。

最後はZ、「死の恐怖を感じている自分」です。私たちは永遠に生きられるわけではありません。自我に目覚めれば、そのことを自覚せざるを得ません。そのため、死の恐怖は心の最も根底に存在しています。

それでは、38歳のM子さんの問題を、この自分分析の「統合の自分」で見ていきます。M子さんは仕事が非常によくできる方で、一方では結婚して子供も欲しいと考えています。しかし最近は疲れ切り、ついに休職する状態に陥りました。何が問題だったのでしょうか。

M子さんは4人きょうだいの長女です。親から、しっかりしたお姉さんであることを求められてきました。親は当然、下の子供たちに手がかかります。しかしM子さん自身には、親の愛が欲しい自分が強くあります。

親の手が下のきょうだいたちにかかるため、そういう意味でも、愛が欲しい自分が強く育ってきたのかもしれません。親の愛を得るためには、「しっかりと生きる」という親の希望を果たさなくてはなりません。

仕事も立派にしなければなりません。これはKに当たります。「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。その前提には、親の愛が欲しい自分が強くあります。N、すなわち愛や評価をもらうために良い子になろうとする自分もあります。しかし親が「しっかり生きること」を望んでいるため、愛をもらうには頑張らなければならなくなります。

本人は、「認めさせたいとは思っていない。ただ、自分の存在価値を認めてほしいだけだ」と言います。しかし、自分の存在価値を認めてもらい、愛や承認を得るには、M子さんにはこの方法しかありません。「しっかりしなさい」という指令が入っているからです。

したがって、本人としてはPKということになります。「受身的に、自分の価値を認めたうえでの評価や愛が欲しい自分」です。しかし、たとえPKであっても、社会は競争社会です。競争社会の中で認めてもらうには、人よりも良い仕事をしなければなりません。

本人は意識していなくても、結果として自分の存在価値を認めさせようとすることと同じになります。その意味で、受身的なKの状態にあると考えられます。

次に、結婚して子供も欲しいという気持ちは何でしょうか。一つには世間体が気になります。親の愛を得るには世間体が大切であり、親自身が世間体を気にしているからです。その意味では、ここにはNがあると考えられます。結婚すれば、世間体を満たすことができます。

また、老後の孤独がつらいという思いがあります。一人ぼっちになること、特に年老いてからの孤独は、人にとって非常につらいものです。その意味でも、愛や評価を求めるNが関係します。

さらに、老後の経済的な不安があるなら、これはA、「ご飯のために社会適応する自分」です。性的な満足も欲しいというのであれば、T、「快楽したい自分」もあります。親や子供の笑顔を見たいというのであればS、「人の笑顔を見たい自分」です。Sのほとんどは自分のためですが、その一部にはYuが含まれます。このように、自分の心をすべて見ていくことが大切です。

大きく育っている自分はわかりやすいのですが、小さいまま置かれている自分もあります。それもすべて見て、すべての自分を認めてあげることが非常に大切です。

M子さんの場合、PKは、強く求めている親の愛と承認をもらうための手段です。ここは重要な点です。

つまり、これは「やむを得ないK」であり、本心ではないということです。私は多くの人を見てきましたが、本当にKが好きで好きでたまらない、つまり人に勝つこと自体が目的だという人を見たことはありません。

表面的には、そのように見える人はたくさんいます。しかし心の深いところを見ていけば、M子さんのように、本当に欲しいものは親の愛と承認だったということが多いのです。ところが、親が「しっかり生きなさい」というメッセージを出しているため、Kという生き方をせざるを得なくなります。したがって、Kは目的ではなく手段であることがほとんどです。

これは「やむを得ないK」であり、「悲しいK」です。この点は、根本解決を考えるときに大変重要になります。今回は、その構造を確認している段階です。

やむを得ないKであったとしても、親から愛と承認をもらうためには、人よりも立派な仕事をし続けなければなりません。

ここには少し矛盾があります。本当にNだけであれば、評価をもらうために良い子になればよいのです。良い子になって評価をもらうのであって、Kのように自分の価値を認めさせるところまでは行きません。しかし、親が「しっかり生きなさい」「立派に生きなさい」と求めている以上、単に良い子になるだけでは足りません。親には、子供にきちんと社会適応してほしいという要求があり、それ自体は自然なことでもあります。しかし、その要求に応え続けるためには、立派な仕事をし続けなくてはなりません。初めのうちは仕事の規模も小さく、求められる水準も低いため、順調に進むことができます。

しかし、次第に規模が大きくなり、水準が高くなると、うまくいかなくなります。しかも、より優秀な人たちがいる場へ入っていくことになります。それでも、さらに頑張る以外の方法を知りません。

それ以外に承認をもらう方法を知らないからです。次第に充実感も生命力も落ち、客観性も失われ、失敗するようになります。Nのように、良い子になって承認をもらうという方法だけでは済みません。親が「良い子であればよい」と言っているのであれば、それでよいかもしれません。しかし、「しっかり生きなさい」「立派に生きなさい」と求められている以上、K以外の方法がなくなります。そしてKで競争社会を生き続ければ、次第にうまくいかなくなります。

それでもやるしかありません。さらに失敗しても、それでもやるしかない。その結果、ひどい場合には過労死やうつ病に至ることさえあります。

さらに、結婚や子供のことも考えなくてはなりません。親の愛と承認を得るには、世間体も大切です。自分の老後を考えれば、自分自身のためにも家族が欲しい。さらに、親の笑顔を見たい自分もいます。これは本当に大変なことです。

特に、「親の笑顔を見たい」という自分が強いと大変です。自分のことだけであれば、自分が我慢すれば何とかなることもあります。しかし、親を喜ばせてあげたい自分がいる場合には、非常に過酷になります。

この点も後で取り上げますが、親を喜ばせてあげたい自分による縛りは非常に強いものになり得ます。

男性の場合には、仕事さえできれば、家庭を守ってくれる妻を得ることは、それほど難しくない場合があります。しかし現在の日本では、仕事をする女性が、主夫、すなわち家のことを担ってくれる男性を得ることは、まだ容易ではないと思います。

このようにして、どうしたらよいのかわからなくなり、何をしてもうまくいかない状態となり、M子さんの行き詰まりが起こったのだと考えられます。

しかし、大切なことは、おかしなことが起こっているのではないということです。自分分析で見ていけば、すべては起こるべくして起こっています。得体の知れない状態になったと思うから不安が拡大し、ときにはパニックになったり、うつ状態に陥ったりします。

心はきちんと動いています。おかしなことが起こっているのではありません。「起こるべくして起こっている」と理解できれば、気持ちは落ち着いてきます。

ただし、今回の話だけでは、まだ不十分です。さらに根本的な原因を明らかにしていく必要があります。根本的な理由が明らかになれば、根本的な解決が可能になります。これは本当に嬉しいことです。次回は、さらに原因の解明を進めていきます。

今回はここで終わります。

 

 

第2回

皆さん、こんにちは。本当の自分を生きるための四つの方法について、話を続けます。前回はこころ分析の第1回として、自分分析を取り上げました。今回は、M子さんの仕事と結婚の行き詰まりの原因をさらに明らかにするため、自分分析に「新型ストレス」を加えた方法について説明します。

前回の自分分析では、私たちの中にはいろいろな自分がいることがわかりました。そして、それらの自分が互いに葛藤し、苦しみを作り出しています。一つの問題だけで苦しんでいるのではなく、複数の自分の葛藤から苦しみが生じています。そこを明らかにしなければ、M子さんの悩みの本当の原因はわかりません。

そこで今回は、自分分析に新型ストレスを加え、その葛藤を明らかにする方法を説明します。方法論の話ですから、少し退屈に感じる方もいるかもしれません。しかし、この方法論を理解して身につければ、心をきちんと見ていくことができ、そのうえで根本解決への道に進むことができます。

まず、前回の自分分析で明らかになったことを、もう一度確認します。

M子さんは4人きょうだいの長女で、親からしっかりしたお姉さんであることを求められてきました。親は下の子供たちに手がかかっていました。

M子さんには、親の愛が欲しい自分が強くあります。N、「評価をもらうために良い子になる自分」です。そして、親の愛を得るには、「しっかり生きる」という親の希望を果たさなくてはなりません。仕事も立派にしなければなりません。

これはKです。Kは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、すなわちプライドの自分です。ただし、ご本人は、「認めさせたいなどとは思っていない。ただ、自分の存在価値を認めてもらい、そのうえで評価や愛が欲しいだけだ」と言います。確かに表現は受身的です。しかし、社会は競争社会です。その中で自分の価値を認めてもらうためには、人よりも良い仕事をしなければなりません。

本人が意識していなくても、結果としては、自分の存在価値を認めさせようとすることと同じになります。これを受身的なK、PKと呼びます。「自分の価値を認めたうえでの評価や愛が欲しい自分」です。表現は受身的でも、中身はやはりKです。

さらに、結婚して子供が欲しいという自分があります。これは何でしょうか。

一つには世間体が気になります。親の愛を得るには世間体が大切です。その意味では、これはN、「評価をもらうために良い子になる自分」です。

老後の孤独がつらいという思いもNに関係します。特に老後の孤独は、現代人にとって本当につらいものです。

老後の経済的な不安があるのであれば、これはA、「ご飯のために社会適応する自分」です。性的な満足も求めるのであればT、「快楽したい自分」です。

親や子供の笑顔を見たいのであれば、これはS、「人の笑顔を見たい自分」です。そのほとんどは自分のためですが、一部にはYu、「無条件の優しさが好きな自分」が含まれます。以上が前回のまとめです。

ここから、新型ストレスについて説明します。新型ストレスについては、これまでにもさまざまなところで話していますので、すでに知っている方も、これから知る方もいると思います。ここでは基本的なところを確認します。

新型ストレスの特徴は、現代人の正常心理を蝕んでいく新しい型のストレスであることです。放置すれば自然に良くなるのではなく、むしろ悪化していくため、非常に難しいストレスです。

これは、私たち現代人の普通の心を蝕んでいくストレスです。放置していれば、だんだん良くなるのではなく、むしろ悪化していきます。過去にはなかった型のストレスであるため、私は「新型ストレス」と名づけています。

これを分析するときには、心を三つの自分に分類します。第1の自分、第2の自分、第3の自分です。

第1の自分は、「自分を生きたい自分」であり、うまくいかなければ不満になる自分です。

第2の自分は、「社会適応しようとする自分」であり、うまくいかなければ不安になる自分です。

第3の自分は、第1の自分と第2の自分が葛藤し、不安や不満を抱え、傷つき、やがて諦める自分です。

私たち現代人は自我が大きく育っています。そのため、「自分を生きたい自分」も当然大きく育っています。一方で、食べていくためには社会適応をしなければなりません。この二つが葛藤します。

この葛藤が長く続くと、ときには不安になり、ときには不満になり、何より傷つく自分となります。そして結局、解決できないために、諦める自分に陥っていきます。その結果、葛藤が延々と持続することになります。

葛藤のために判断ができず、常に曖昧な生き方になります。二つの自分がそれぞれ異なることを求めるため、判断できずに曖昧になるのです。さらに葛藤によって充実感が低下し、常に疲労感が生じます。やがて無気力・無感動に陥ります。これが新型ストレスの基本的な構造です。

新型ストレスの症状を、もう少し詳しく見ます。

まず、明らかな身体的な病気がないことが大切です。きちんと検査と診断を行い、身体的な病気がないことを確認する必要があります。この点を押さえることは、心身医学として非常に重要です。

身体的な病気がないにもかかわらず、すぐに疲れる、疲れが残る、朝起きられない、片付けや掃除ができなくなる、以前のように身体が動かない、イライラする、といった症状が出ます。さらに、記憶力が落ち、てきぱきと仕事ができなくなります。

すぐに判断できなくなり、気持ちが重くなり、無気力・無感動となり、希望がないように思えてきます。そして、「何のために生きているのかわからない」という状態にまで進むことがあります。

M子さんにも、すぐに疲れる、疲れが残るといった症状があると思われます。朝起きられないと本人が言っているかどうかは明らかではありませんが、記憶力が落ち、てきぱきと仕事ができなくなり、すぐに判断できなくなり、結局、仕事で行き詰まって休職に至ったと考えられます。

このような症状が、身体的な病気がないにもかかわらず現れ、すぐには消えず、長く持続するのであれば、新型ストレスの症状ではないかと考えてみる必要があります。

具体的には、新型ストレスの図に当てはめて見ていきます。

まず第1の自分は、「自分を生きたい自分」で、うまくいかなければ不満になります。

第2の自分は、「社会適応しようとする自分」で、うまくいかなければ不安になります。

私たちは、この第1の自分と第2の自分が葛藤している第3の自分を、現実に生きています。

第1の自分と第2の自分が延々と葛藤し、その持続する葛藤の中で生きています。葛藤のため判断できません。一方の自分が求めることは、もう一方の自分には認められないため、常に曖昧な判断になってしまいます。そして充実感が低下し、疲労感が出てきます。

やがて無気力・無感動に陥ります。葛藤を解決できないからです。この図に、M子さんの状態を当てはめて見ていきます。

さらに、この新型ストレスの第1・第2・第3の自分の上に、自分分析を重ねます。前回取り上げた「統合の自分」を当てはめることによって、何によって苦しんでいるのか、その構造をさらに明らかにします。

まず、第1の自分の特徴を確認します。第1の自分は、自分を生きたい自分です。主体的、自発的、能動的であり、判断基準は自分にあります。

一方、第2の自分は社会適応しようとする自分で、うまくいかなければ不安になります。従順で、消極的で、受身的です。社会適応しようとするため、判断基準は相手にあり、相手に合わせようとします。

このように第1の自分と第2の自分の特徴を捉えたうえで、自分分析における「統合の自分」が、どちらに当てはまるのかを見ていきます。どの自分とどの自分が葛藤しているのかを明らかにするためです。

まずN、「評価をもらうために良い子になる自分」はどちらでしょうか。評価をもらうために社会適応し、相手に合わせて良い子になろうとします。したがって、これは第2の自分です。

次にA、「ご飯のために社会適応する自分」です。これは文字どおり、食べていくために社会適応し、相手に合わせなければならない自分ですから、第2の自分です。

次にT、「快楽したい自分」です。快楽したい自分は、主体的、自発的、能動的です。したがって、第1の自分に属すると考えられます。

次にW、「自由気ままに生きたい自分」です。自由気ままに、楽しく生きたいのは当然の願いです。これは相手に合わせる自分でも、良い子になろうとする自分でもありません。自発的、主体的、能動的で、うまくいかなければ不満が出ますから、第1の自分です。

次にK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。これは現代人に非常に多く、問題が起こりやすいところなので、しっかり見ていく必要があります。

人に自分の存在価値を認めさせようとするためには、良い子になって受身的・消極的にしているだけでは、認めさせることはできません。主体的に行動し、判断基準を自分に置く必要があります。したがって、Kは第1の自分です。

次にPK、受身的なKです。「自分の価値を認めたうえでの評価や愛が欲しい自分」です。表現だけを見ると、一見、第2の自分のように見えます。しかし、「自分の価値を認めたうえで」という条件がありますから、結局は自分の価値を認めさせる必要があります。

良い子になって相手の判断に任せるのではありません。「自分の価値を認めたうえで」ということですから、中身は主体的、自発的、能動的で、判断基準は自分にあります。したがって、PKも第1の自分です。

次にS、「人の笑顔を見たい自分」です。これはとても嬉しい自分です。ただし、そのほとんどは自分のために笑顔を見たいというものです。それでも一部にはYuがあり、無条件に人の笑顔を見たい、無条件の優しさを向けたいという、とてもよいものが含まれています。

これは、「私が人の笑顔を見たい」という自分ですから、主体的、自発的、能動的です。その意味では、第1の自分と考えられます。

次にF、「本当の自分とは何かわからないが、本当の自分を生きたいという願いを持っている自分」です。本当の自分とは何かわからないというのは、むしろ当然です。本当の自分は、これまで抑えられてきたからです。

私たちは小さいときから、「社会適応しなければならない」「社会適応しないと駄目だ」と不安を刺激され続けてきました。そのため、本当の自分を抑えざるを得ず、よくわからなくなっています。「本当の自分とは何かわからない」という状態は、むしろ自然です。

しかし、その中にも、「本当の自分を生きたい」という願いを持っている自分がどこかに存在し、ときにそれが小さく叫びます。これは非常に大切な自分です。主体的、自発的、能動的ですから、第1の自分です。

次にYu、「ふとした優しさが好きな自分」です。無条件の優しさ、見返りを期待しない優しさです。これはとても嬉しいものです。

私は、こうした優しさは全体の1%ほどだといつも話しています。たくさんあるわけではありませんが、確かに存在します。これも、自分自身がその優しさを見たい、行いたいというものですから、主体的、自発的、能動的であり、第1の自分に属すると考えられます。

最後はZ、「死の恐怖を感じている自分」です。私たちは有限です。この世に生まれた以上、いつかは必ず死ななければならない運命を生きています。そして、そのことを自覚しています。

死に対する恐怖心は非常に強いものです。しかし、多くの場合、それを見ないようにして過ごし、何とか感じないように、ごまかしながら生きています。そのため、普段の生活で死の恐怖が直接表面に出てくることは少ないと思います。

しかし、心の根底には歴然と存在しています。死は怖いものですから、何とか良い子になり、社会適応して危険を避けようとします。その意味では、消極的で受身的な第2の自分に属すると考えられます。

以上のように、自分分析の「統合の自分」を、新型ストレスの第1の自分と第2の自分に当てはめました。

M子さんの場合には、N、「評価をもらうために良い子になる自分」がありました。

K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分もありました。ご本人は、「自分の価値を認めたうえで愛や評価が欲しいだけで、認めさせたいわけではない」と言います。そのためPKと表現できますが、基本的にPKの中身はKです。

さらにA、「ご飯のために社会適応する自分」があり、T、「快楽したい自分」もあります。またS、「人の笑顔を見たい自分」もあります。そのほとんどは自分のためですが、一部にはYuがあります。これらが前回、M子さんの中にあると見た自分です。

では、これらを第1の自分と第2の自分に当てはめるとどうなるでしょうか。

T、「快楽したい自分」は第1の自分です。W、「自由気ままに生きたい自分」も第1の自分です。S、「人の笑顔を見たい自分」も、そのほとんどは自分のためで一部にYuを含みますが、第1の自分です。そしてK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分も第1の自分です。

M子さん本人はPKであり、「認めてほしいと思っているだけだ」と言います。しかし、分析上はKとして見た方が構造がわかりやすくなります。

一方、第2の自分には、N、「評価をもらうために良い子になる自分」があります。良い子になって相手に合わせるのですから、第2の自分です。またA、「ご飯のために社会適応する自分」は、まさに第2の自分です。

こうした自分が同時に存在すると、どのような葛藤が起こるのでしょうか。その葛藤を見なければ、悩みの本当の解決には至りません。

まず、M子さんの中心にある自分は、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分ではないかと考えられます。4人きょうだいの一番上のお姉さんとして、親から「しっかり生きなさい」というメッセージを与えられ続け、それに応えようとして頑張り続け、ついには休職するところまで追い込まれました。そのため、中心にあるのはKだろうと考えられます。

一方には、N、「評価をもらうために良い子になる自分」があり、A、「ご飯のために社会適応する自分」もあります。この両者との関係はどうなるのでしょうか。

そもそもK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」は、人に向かっています。社会の中で、自分の価値を認めさせなければなりません。しかし、本来の第1の自分は、自由に自分を生きたいのであって、社会適応そのものを目指しているわけではありません。それなのに、なぜM子さんでは、第1の自分であるKまでが社会適応の方向へ向かっているのでしょうか。

これは非常に大きな問題です。次回から、この点をしっかり見ていく必要があります。

さらに、T、「快楽したい自分」とW、「自由気ままに生きたい自分」は、本来の第1の自分です。一方、N、「愛や評価をもらうために良い子になる自分」やA、「ご飯のために社会適応する自分」は第2の自分です。この両者は明らかに葛藤します。

同時に両方を満たすことはできません。M子さんの場合には、さらに強いK、すなわち自分を認めさせ、評価を得ようとする自分があります。その足元には、こうした第1の自分と第2の自分の葛藤も常につきまといます。そのため、非常につらい状態になると考えられます。

さらにS、「人の笑顔を見たい自分」があります。人の笑顔を見たいという気持ちがあると、当然、人を笑顔にしたい方向へ気持ちが動きます。しかし、第2の自分である「良い子にならなければならない」「社会適応しなければならない」という要求と、必ずしも一致するわけではありません。

一致しない部分が出てくれば、そこにも新たな葛藤と悩みが生じます。

ここまで見てきた大切な点は、おかしなことが起こっているのではないということです。

「得体の知れない状態になった」と思うから、不安が拡大し、ときにはパニックになったり、うつ状態に陥ったりします。しかし心はきちんと動いています。おかしなことが起こっているのではなく、「起こるべきことが、起こるべくして起こっている」と理解できれば、受け止め方は変わります。

今回は、自分分析と新型ストレスを組み合わせる基本的な使い方を説明しました。方法論の基礎なので、少し難しく感じた方もいるかもしれません。しかし、葛藤している第1の自分と第2の自分が見えてきました。ここから、その葛藤の根本を見ていきます。

そこを明らかにすれば、根本解決につながります。次回から、その部分に入っていきます。

今回はここで終わります。

 

 

第3回

皆さん、こんにちは。今回も、本当の自分を生きるための四つの方法について話を進めます。四つの方法とは、こころ分析、ゼロ体験、生かされてる医学的事実、そしてサポートです。

この四つの方法のうち、現在はこころ分析について話しており、今回は第3回です。M子さんは、仕事と結婚の行き詰まりから休職に至りました。その休職の原因は、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」ではないか、という点を見ていきます。

まず、前回までの内容をまとめます。

M子さんは4人きょうだいの長女で、親から、しっかりしたお姉さんであることを求められてきました。親は下の子供たちに手がかかっていました。そのためM子さんには、親の愛が欲しい自分が強くあります。そして親の愛を得るには、「しっかり生きる」という親の希望を果たさなくてはなりません。

仕事も立派にしなければなりません。これはK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。ただし、ご本人は、「認めさせたいなどとは思っていない。ただ、自分の存在価値を認めてほしいと思っているだけだ」と言います。これをPK、受身的なKと呼びます。「自分の存在価値を認めたうえでの評価や愛が欲しい自分」です。

しかし、競争社会の中で認めてもらうためには、人よりも良い仕事をしなければなりません。本人が意識していなくても、結果として自分の存在価値を認めさせようとすることと同じになります。したがって、PKは結局Kだということになります。

その他にも、結婚して子供が欲しいという自分があります。これには、一つには世間体が関係します。親の愛を得るには世間体が大切です。その意味ではN、「評価をもらうために良い子になる自分」です。老後の孤独がつらいという思いも、やはりNに関係します。

老後の経済的な不安はA、「ご飯のために社会適応する自分」です。性的な満足も求めるのであればT、「快楽したい自分」です。親や子供の笑顔を見たいのであればS、「人の笑顔を見たい自分」です。そのほとんどは自分のためですが、一部にはYuがあります。

前回は、これらを新型ストレスの第1の自分と第2の自分に分けて見ました。

第1の自分に属するのは、T、「快楽したい自分」、W、「自由気ままに生きたい自分」、S、「人の笑顔を見たい自分」、そしてK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。M子さん自身はPKだと表現しますが、中身はKですから、Kとして見た方がわかりやすいと考えました。

第2の自分に属するのは、N、「評価をもらうために良い子になる自分」と、A、「ご飯のために社会適応する自分」です。ここまでが前回見えてきたところでした。

M子さんの最大の問題は、現在休職していることです。その原因として、まずK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」が考えられるのではないか、ということです。M子さんは、早く会社に復帰したいと焦っています。

もし休職の原因がKであるとすれば、そのことを知らない限り、自滅のシナリオは持続し、回復は極めて困難になると考えられます。Kには、自滅に向かう一つのシナリオがあります。それが本当にM子さんに当てはまるのかを、これから詳しく見ていきます。

Kは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、すなわちプライドの自分であり、「自身のある自分でいたい自分」とも言えます。しかしKには、必ず「Kの不安」が伴います。

具体的には、自分が否定されないかという不安、プライドを傷つけられないかという不安、仲間外れにされないかという不安、嫌われないかという不安、恥ずかしい思いをさせられないかという不安、食べていけないのではないかという不安、病気になるのではないかという不安です。これらを「Kの不安」と呼びます。

なぜKは、Kの不安を伴うのでしょうか。

Kは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」ですから、人と同じでは不十分です。人より下では、なおさら駄目です。常に人より上でなければ、存在価値を認めさせることができません。

しかし、この社会は競争社会です。競争に負けることがあります。同じことをしているだけでは評価されませんから、常に仕事の規模も質も上げ続けなければなりません。これは非常に大変なことです。しかも、上に行けば行くほど、能力の高い人が多くなります。結局、いつかは競争に負けることになります。これが一つ目の問題です。

二つ目は、孤立と孤独が生じることです。Kでは、人と同じでは駄目、人より下では駄目、人より上でなければならない、と考えます。その結果、他人は競争相手、あるいは敵になります。そして人から嫌われ、友達もいなくなり、孤立と孤独が生じます。

さらに、死の恐怖までついてきます。常に、人と同じでは駄目、人より下では絶対に駄目、人より上でなければならないと頑張ります。しかし、失敗すれば愛と承認を得られなくなります。

Kでは、自分を認めさせることで承認を得ようとしています。そのため、失敗すれば存在価値も、ご飯も、快楽も、自由も失ってしまうように感じます。つまり、すべてを失うように感じるのです。

しかも、このK型の人生しか知りません。ずっとその生き方で頑張ってきたからです。またKでは、人から学ぶことが難しくなります。人より上でなければならないため、他人に教えを請うことができません。その結果、他の生き方を学ぶこともできなくなります。

私たちは、心の根底に死の恐怖を持って生きています。そのため、意識するかどうかは別として、その恐怖をどうしても感じるようになります。

このように、Kは必ずKの不安に陥ります。人より上でなければならない、人と同じでは駄目、人より下では全く駄目と考えます。しかし、人より上であり続けようとすれば、いずれ競争に負けます。さらに孤立と孤独が生じます。そして、自我に目覚めた私たちの心の根底には死の恐怖がありますから、意識するかどうかにかかわらず、常にその恐怖にさらされます。結果として、不安と恐怖が強くなります。

これを「Kの不安」と呼んでいます。競争社会の中で勝ち続けることはできませんから、Kは必ずKの不安を持つようになります。KとKの不安は、一体のものです。競争社会の中でKとして生きようとすれば、このような心の動きが必ず起こります。

そして、KとKの不安は、新型ストレスの「特殊型」と呼んでいます。

本来、新型ストレスの第1の自分は、自由に自分を生きたい自分です。楽しく、嬉しく、本当の自分を生きたいのであって、社会適応そのものを目的にはしていません。

ところがKの場合、第1の自分であるはずのKが、社会適応を目指します。これは本来の第1の自分とは異なります。

また、第2の自分はKの不安になります。しかしKの不安では、判断基準が自分にあります。自分の存在価値を守るために起こってくる不安だからです。

本来の第2の自分は、判断基準が相手にあります。社会適応するため、相手に合わせます。また本来の第2の自分は、従順で、消極的で、受身的です。

ところがKの不安では、判断基準が自分にあります。そのため、相手より上でなければならないという意識が強く、人から学ぶことができません。

本来の第2の自分は社会適応を目指すため、相手に合わせます。相手に合わせるためには、何が問題なのかを相手から教えてもらう必要があります。しかしKでは、相手より上でなければならないため、相手から学べません。

このように、Kでは第1の自分も本来の姿と異なり、第2の自分も本来の姿と異なります。そのため、私はKとKの不安を、新型ストレスの特殊型と呼んでいます。

KとKの不安では、「社会的に成功するか、失敗するか」という道しかなくなります。

本来の第1の自分は、自由に、楽しく、嬉しく、優しくなど、さまざまな形で自分を生きたいのであって、社会適応だけを目的にしているわけではありません。そのため、社会適応しか選べないという状態は、本来の第1の自分から見ると非常に不自然です。

しかしKは社会適応を目指します。一方、第2の自分であるKの不安も社会適応を目指しますが、自分の存在価値を守るため、判断基準は自分です。その結果、相手にきちんと合わせるのではなく、自分の判断で社会適応しようとするため、とんちんかんな反応や対応になってしまいます。

相手に本当に合わせるのであれば、相手をよく見て合わせればよいのです。しかしKの不安では、自分の存在価値を守ることが中心にあり、判断基準は自分です。従順に見えるのは表面だけで、相手から学ぶことができません。そのため、対応がとんちんかんになり、リカバリーができません。

何かがうまくいかなくなったときに、適切に対応できません。そもそも競争社会では、普通に生きていても成功し続けることはできません。ましてKとKの不安では、とんちんかんな対応をしてしまうため、うまく立て直すことができず、結果として失敗に終わりやすくなります。社会適応一本になってしまうことが、大きな問題です。

そこで、「なぜこうなったのか」という疑問が生じます。

自我が芽生えれば、誰でも自分を生きたいと思います。一方、食べていくためには社会適応しなければならず、その二つが葛藤します。ところがKでは、本来自分を生きたいはずの第1の自分までもが、社会適応を目指してしまいます。

なぜ、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」であるKができたのでしょうか。なぜKとKの不安となり、自滅のシナリオを演じることになるのでしょうか。この疑問を考える必要があります。

ここから少し難しくなりますが、非常に大切な部分です。「条件付きの愛」が、存在の否定を起こすということを見ていく必要があります。

M子さんは4人きょうだいの一番上のお姉さんです。次の妹や弟が生まれると、「お姉ちゃんだから、しっかりしなさい」と言われます。さらに次の子供が生まれれば、親は子供たちの世話でますます忙しくなります。そのため、特に一番上の子には、「わがままな子では駄目」「良い子になりなさい」「よく言うことを聞く子になりなさい」と求めやすくなります。

「素直な子になりなさい。そうすれば愛されます。しかし、そうしなければ捨てられます」という、条件付きの愛のメッセージが伝わってしまいます。

自我に目覚めた私たちは、死があることを理解します。そのため、心の根底には死の恐怖があります。「捨てられたら困る」という恐怖が強く働きます。

その結果、まず第1回目の「存在の否定」が起こります。本来の第1の自分は、自分を生きたい、自由に生きたい自分です。子供であれば、ある意味でわがままな自分でもあります。しかし、「わがままな子では駄目」と言われることで、この第1の自分、本当の自分を生きたい自分が否定されます。

これを、新型ストレスの第1の自分と第2の自分の図の上で見てみます。

条件付きの愛では、「素直で良い子になりなさい。そうすれば愛される。そうしなければ捨てられる」というメッセージが与えられます。その根底にはZ、死の恐怖があります。

第2の自分は不安を感じる自分ですから、その不安が大きくなります。一方、第1の自分は、自由に生きたい自分ですから、言うことを聞かない部分があります。しかし、「わがままな子では駄目」と否定されることで、主体性を否定され、自発性が壊されます。その結果、何でも言うことを聞く良い子になっていきます。

しかも、この「良い子になる」ということは、かなり徹底して行われます。そうしなければ、条件付きの愛のもとで叱られることが増えるからです。このようにして良い子になっていくことが、第1回目の存在の否定です。

しかし、良い子になればそれで終わりではありません。次には、「不安な子では駄目」「弱い子では駄目」と言われます。M子さんには、しっかりしたお姉さんであることが求められました。

「言うことを聞く良い子であるだけではなく、しっかりしたお姉さんになりなさい。弱い子では駄目。しっかりした子になりなさい。認められる人間になりなさい。そうすれば愛される。そうしなければ捨てられる」というメッセージです。

ここにも、根底にはZ、死の恐怖があります。そのため、子供はこの要求を受け入れざるを得ません。ここで第2回目の「存在の否定」が起こります。

第1回目の存在の否定によって、「素直で良い子になりなさい。そうでなければ駄目だ」と不安を刺激され、第2の自分が非常に大きくなります。一方、第1の自分は主体性を失い、小さくなります。

しかし、不安ばかりのままでは生きていけません。そこで次に、「しっかりした子になりなさい。不安な子では駄目だ」と求められます。言うことを聞かなければ命が危ないと感じるほど、心の根底には死の恐怖があります。そのため、まず何でも言うことを聞く良い子にされ、そのうえで、「それだけでは駄目だ。しっかりした子になりなさい」と求められます。

すでに何でも言うことを聞く良い子になっていますから、親の指示を受け入れざるを得ません。「弱い子では駄目」「不安な子では駄目」「しっかりした子になりなさい」「強い子になりなさい」「社会適応をしっかりできる子になりなさい」と求められます。

その結果、弱く不安を感じる第2の自分は切り捨てられ、代わりに、しっかりした自分、強い自分、社会で認められる自分が作られていきます。これがKの発生につながると考えられます。

私は、この二段階の過程を「存在の二重否定」と呼んでいます。

これは、決して特殊なことではありません。M子さんの場合には、一番上のお姉さんであることから特に強く表れた可能性がありますが、条件付きの愛そのものは、いつでもどこにでもあります。

条件付きの愛のもとでは、まず素直で良い子になることが求められ、さらに親は、しっかりした子、社会適応をしっかりできる子であることを望みます。その結果、弱い自分、不安な自分は駄目だとされ、しっかりした自分が作られていきます。

しかし、このKは作られた自分です。その意味で私は、「死の恐怖に乗っ取られた自分」と呼んでいます。本来の自分ではないと考えます。

ただし、本来の自分ではないからといって、Kを簡単にやめることはできません。「言うことを聞かなければ捨てられる」という、骨の髄まで入り込んだ不安と恐怖の上に成り立っているからです。

しかしKとして生き続ければ、先ほど述べたように、競争に負ける、孤立と孤独が生じる、死の恐怖が強く感じられるということが起こり、Kの不安が必ずついてきます。

自分が否定されないか、プライドを傷つけられないか、仲間外れにされないか、嫌われないか、恥ずかしい思いをさせられないか、食べていけないのではないか、病気になるのではないか、というKの不安が出てきます。そして、とんちんかんな対応をしてしまうという悪循環が起こります。

その結果、仕事ができなくなり、社会に適応できなくなるということが起こってきたのではないかと推測できます。もちろん、これはあくまで推測です。しかし、M子さんについては、そのような推測が成り立つように思われます。

このように見てくると、M子さんの休職の原因の一つとして、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」が見えてきます。

しかし、M子さんを休職に追い込んだ原因は、本当にKだけなのでしょうか。ここには、まだ疑問が残ります。

M子さんにはN、「愛や評価をもらうために自分を抑えて良い子になる自分」があります。S、「人の笑顔を見たい自分」もあります。W、「自由気ままに生きたい自分」、T、「快楽したい自分」もあります。

さらにA、「ご飯のために社会適応する自分」もあります。これらの自分は、休職の原因にはなっていないのでしょうか。

根本解決をするためには、根本的な原因を明らかにしなければなりません。診断と治療の関係と同じです。

次回は、今挙げたそれぞれの自分と休職との関係を明らかにしていきます。根本的な原因を明らかにし、根本的な解決に近づいていきます。

今回はここで終わります。

 

 

第4回

皆さん、こんにちは。今回も、本当の自分を生きるための四つの方法について話を進めます。四つの方法とは、こころ分析、ゼロ体験、生かされてる医学的事実、そしてサポートです。そのうち、今回はこころ分析の第4回です。

38歳のM子さんは、仕事と結婚の行き詰まりに苦しんでいます。これまでの分析から、M子さんの問題にはK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」が大きく関係していることがわかってきました。

M子さんはKによって苦しんでいます。しかもKは、自滅に向かうシナリオを持っています。それなのに、なぜKをやめることができないのでしょうか。今回は、この問題を見ていきます。

Kは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」です。競争社会の中でKとして生き続けるため、非常に苦しくなります。しかもKは、自滅のシナリオです。

それほど苦しいKを、なぜやめられないのでしょうか。そこには、それなりの深刻で難しい理由があります。その理由を明らかにしなければ、根本的な解決には進めません。

まず、もう一度M子さんの状態を確認します。

M子さんは4人きょうだいの長女で、親から、しっかりしたお姉さんであることを求められてきました。親は下の子供たちに手がかかっていました。そのためM子さんには、親の愛が欲しい自分、N、「愛や評価をもらうために良い子になる自分」が強くあります。

親の愛を得るためには、「しっかり生きる」という親の希望を果たさなくてはなりません。仕事も立派にしなければなりません。ここにKがあります。

ご本人は、「認めさせたいなどとは思っていない。ただ、自分の存在価値を認めてほしいだけだ」と言います。しかし、競争社会の中で認めてもらうには、人よりも良い仕事をしなければなりません。

本人が意識していなくても、結果としては、自分の存在価値を認めさせようとすることと同じです。これは受身的なK、PKですが、分析上はKとして取り扱う必要があります。M子さんのPKも、Kとして見ていきます。

さらにM子さんには、結婚して子供も欲しいという思いがあります。これは何なのでしょうか。

世間体が気になるのであれば、親の愛を得るために世間体を整えたいということですから、Nです。老後の孤独がつらいという思いもNに関係します。老後の経済的な不安はAです。性的な満足も求めるのであればTです。親や子供の笑顔を見たいというのであればSです。このように、自分分析で一つずつ当てはめてきました。

ここで、もう一度Kを振り返ります。

Kは必ずKの不安に陥る、非常につらいものです。Kとは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分であり、「自信のある自分でいたい自分」です。

そのため、人と同じでは駄目で、人より下では全く駄目です。人より上でなければなりません。しかし競争社会の中で、常に人より上にい続けることはできません。いずれ競争に負けます。

さらに、孤立と孤独が生じます。そして死の恐怖まで強くなります。その結果、Kの不安に陥ります。

自分が否定されないかという不安、プライドを傷つけられないかという不安、仲間外れにされないかという不安、嫌われないかという不安、恥ずかしい思いをさせられないかという不安、食べていけないのではないかという不安、病気になるのではないかという不安です。Kには、こうしたKの不安が必ず伴うため、非常につらくなります。

これも前回見た内容ですが、もう一度確認します。

本来、第1の自分は、社会適応そのものをしたいのではなく、自由に自分を生きたい自分です。ところがKでは、第1の自分であるKが社会適応を目指します。

第2の自分も社会適応を目指します。その結果、Kでは社会適応一本になり、「社会的に成功するか、失敗するか」という道しかなくなります。

しかもKとKの不安では、判断基準が常に自分にあります。本来の社会適応であれば、相手に合わせることが必要です。しかし判断基準が自分にあるため、うまくいかなくなったときに相手を見て修正することができません。リカバリーができないのです。

従順で、消極的で、受身的に見えても、それは表面上の姿です。Kでは相手より上でなければならないため、相手から学ぶことができません。その結果、反応や対応が常にとんちんかんになり、社会適応もうまくいかなくなります。

普通に生きていても、社会の中で成功し続けることは難しいものです。それなのに、とんちんかんな反応と対応を繰り返せば、なおさら成功し続けることはできません。こうしてKは、自滅のシナリオになっていきます。

それなら、Kはやめてしまった方がよいということになります。しかし、Kをやめられない理由があります。その理由を一つずつ丁寧に見なければ、解決できません。「Kをやめましょう」と言うだけで済むほど簡単な問題ではありません。

M子さんの中には、いろいろな自分がいました。

T、「快楽したい自分」、W、「自由気ままに生きたい自分」、S、「人の笑顔を見たい自分」、そしてK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。これらは第1の自分に属します。

一方、N、「愛や評価をもらうために良い子になる自分」と、A、「ご飯のために社会適応する自分」は、第2の自分に属します。

この中でM子さんには、特にKが目立ちます。Kで生きてきたと考えられます。ではKは、その他の自分とどのような関係にあるのでしょうか。そして、その関係があるためにKをやめられないのではないでしょうか。根本解決のためには、この点を明らかにすることが重要です。

ここでも新型ストレスの図で見ていきます。

通常、新型ストレスでは、第1の自分である「自分を生きたい自分」と、第2の自分である「社会適応しようとする自分」が葛藤します。しかしKの場合は特殊型になります。

最初にあるのは、条件付きの愛です。「素直で良い子になりなさい。そうすれば愛される。そうしなければ捨てられる」という、とても怖いメッセージです。

心の根底にはZ、死の恐怖があります。小さな子供が親から条件付きの愛しかもらえなければ、当然、第2の自分の不安は大きくなります。

一方、第1の自分は、「わがままを言ってはいけない」と抑えられます。主体性や自発性が壊され、何でも言うことを聞く良い子になります。心の根底に死の恐怖があるため、そうならざるを得ません。これが第1回目の存在の否定です。

さらに、第2回目の存在の否定が起こります。

第1回目の存在の否定によって、おとなしく、不安で、素直な良い子になりました。これで許してもらえるかと思うと、そうではありません。

次には、「不安な子では駄目。しっかりした子になりなさい。社会の中でしっかり生きられる子になりなさい」と親から求められます。ここでも、言うことを聞かなければ見捨てられるという死の恐怖が根底にあります。

そのため第1の自分は、しっかりした子になろう、強い子になろう、親が期待するような社会適応のできる子になろうとします。ここでKの自分が誕生します。

このように考えると、Kが「やむを得ないK」であることがわかります。根底にZ、死の恐怖があるため、非常に強いものになります。

このような存在の二重否定が、日常の中でごく普通に行われていることには、非常に悲しいものを感じます。

そこで、Kをやめられない第1の理由は、Kが単なるKではなく、「KZ」であるということです。Kの根底にZ、死の恐怖があります。Zによって縛られているため、Kは非常に強烈になります。

次にNを見ます。

M子さんは4人きょうだいの長女で、親からしっかりしたお姉さんであることを求められてきました。親は下の子供たちに手がかかっていました。そのため、M子さんには、親の愛が欲しい自分、Nが強くあります。

親の愛を得るためには、「しっかり生きる」という親の希望を果たさなくてはなりません。仕事も立派にしなければなりません。ここにKがあります。

M子さんは4人きょうだいの長女であり、十分な愛をもらえていないと感じてきた可能性があります。もらえなかった愛を取り戻そうとするように、「愛が欲しい自分」が肥大していきます。

結婚についても、親の世間体のため、あるいは老後の孤独を避けるためという面があり、必ずしも男女の愛そのものが中心ではありません。男性からの愛を強く求めているようには見えないかもしれません。

なぜなら、本当に欲しいのは親の愛だからです。ここは非常に厳しいところです。親に代わりはいません。

M子さんのKZは、親から愛をもらい、Nを満たすための手段・方法になっていたのではないでしょうか。

N、「愛や評価をもらうために、自分を抑えて良い子になる自分」については、愛や評価を誰からもらいたいのかによって意味が違います。親から欲しい場合と、他人から欲しい場合は同じではありません。

M子さんの場合、親から愛が欲しいのです。親には代わりがありません。これは非常に大変です。

他人から愛や評価が欲しいのであれば、この人からもらえなくても、別の人からもらえる可能性があります。しかし、親の代わりはいません。そのため、親の言うことを聞くしかないという、厳しい縛りになります。

M子さんは、親から愛や評価をもらうために、自分を抑えて良い子になります。親からもらうためには、親のメッセージを果たさなくてはなりません。

その親のメッセージがKです。しかも根底にZがあるKZです。親の愛を得るためには、自分の存在価値を認めさせなければならない。その結果、KZにさらにNが加わり、「KZN」になります。

親から愛をもらうためにはKZを続けなければならないため、KはZとNによって支配されることになります。親に代わりはいませんから、そこから逃れることが非常に難しくなります。

M子さんには、その他にもいろいろな自分があります。T、「快楽したい自分」、W、「自由気ままに生きたい自分」などです。これらは第1の自分であり、社会適応そのものではなく、自分を生きたい自分です。

では、これらの自分はどうなるのでしょうか。

N、「親から愛や評価をもらうために、自分を抑えて良い子になる自分」が非常に強く働いています。そのため、快楽したい、自由気ままに生きたいという自分は、「わがままな自分」とみなされます。そのようなことをしていれば、親から愛や評価をもらえないと感じるからです。

その結果、快楽や自由気ままに生きることは、「してはいけないこと」になります。心の根底には不満がくすぶるとしても、少なくとも表には出てこなくなります。

したがって、Kをやめられない第2の理由は、KがZだけでなくNによっても縛られていることです。つまり、KはKZNになっています。

親から愛が欲しいという自分によってKが作り上げられ、縛られています。この縛りから逃れることは容易ではありません。

しかし、問題はそれだけではありません。次にSを見ます。

Sは、場合によっては極めつけと言えるほど強い縛りになります。Sは「人の笑顔を見たい自分」ですが、誰の笑顔を見たいのかによって強さが変わります。

他人の笑顔を見たい場合と、親の笑顔を見たい場合とでは意味が違います。M子さんの場合には、「親の笑顔を見たい」というSが強くあります。これは非常に厳しいものです。

親に代わりはいません。他人の笑顔を見たいのであれば、この人の笑顔を見られなくても、別の人の笑顔を見ることができるかもしれません。そのようにして、心が縛りから逃れることもできます。

しかし、親の笑顔には代わりがありません。親しかいないため、非常に強く縛られます。

親の笑顔を見たい自分Sは、第1の自分です。これまで見てきたM子さんのKは、すでにKZNという状態になっています。ところが、親の笑顔を見たいというSは、そのKZNと矛盾するどころか一致してしまいます。

他人の笑顔を見たい場合には、Kの要求とぶつかることもあります。しかし親の場合には、親の要求に応え、親を喜ばせることとKが一致します。

そのため、親の笑顔を見るために、KはさらにSによって強化され、「KZNS」になります。これは極めて強い縛りです。

一方、T、「快楽したい自分」やW、「自由気ままに生きたい自分」はどうなるでしょうか。

KZNSが出来上がっている場合、その力は非常に強くなります。Kは第1の自分であるにもかかわらず、社会適応を目指します。

本来の第1の自分である快楽したい自分や自由気ままに生きたい自分は、社会適応を嫌います。しかしKZNSが強ければ、「そんなことをしている暇はない」「そんなことをしてはいけない」ということになり、抑え込まれます。

したがって、Kをやめられない第3の理由は、Kが最終的に「KZNS」になっているということです。これは非常に強い縛りです。

もう一度、なぜKがこれほど強固になり、その人の人生を縛り、修正できなくなるのかを確認します。

その理由は、Z・N・SがKを作り上げているからです。

Zは、親に捨てられることへの死の恐怖です。これは当然、非常に怖いものです。

Nは、親の愛が欲しいという自分です。親の愛は欲しいものです。しかも親には代わりがありません。

Sは、親の笑顔を見たいという自分です。むしろ、「親の悲しい顔を見たくない自分」と言った方が現実的かもしれません。親の悲しい顔を絶対に見たくない。そのため、心は親に強く縛られてしまいます。

親が悲しい顔をしていれば、自分のことを後回しにしてでも、何とかしてあげたいと思うほど強く働くことがあります。

大切な点なので、もう一度整理します。

Kは、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」、プライドの自分です。

まずZがあります。親から捨てられることへの死の恐怖によってKが作られます。Kをやらなければ親から捨てられるという恐怖が起こるため、非常に強い力になります。

さらにNがあります。「親から愛や評価をもらうために良い子になる自分」です。親の愛は欲しいものです。しかも親に代わりはいません。これをもらえなくなることは、非常につらく悲しいことです。

さらに極めつけとしてSがあります。「親の笑顔を見たい自分」、あるいは「親の悲しい顔を見たくない自分」です。

このZ・N・SによってKが作り上げられています。つまり、Kの実態はKZNSです。非常に強い縛りです。

この構造を理解しないまま、「Kをやめたらよい」と簡単に言うことはできません。

今回のまとめです。

Kは自滅のシナリオであり、非常に苦しいものです。そのため、一刻も早くKから自由になった方がよいと考えられます。しかし、実際にはKをやめることができません。

しかもM子さんは、早く復職したいと焦っています。早く復職し、再びKで頑張り、以前の状態を取り戻したいと考えている可能性があります。しかし、そのままでは本当に自滅してしまうかもしれません。

なぜKは、これほど強力にM子さんを縛っているのでしょうか。

それは、Kの原因に、親から捨てられたくないZ、親の愛が欲しいN、さらに親の笑顔を見たいSがあるからです。親の悲しい顔を見たくない、と表現した方が現実的な場合もあります。

Kの原因がZNSである場合、その縛りは強烈です。簡単にやめることはできません。

「もうKをやめましょう」「別の生き方に変えましょう」と簡単に言うことは、本人をさらに否定することにもなりかねません。やめることができないだけの理由があるからです。

したがって、まず理解することが非常に大切です。「これは本当に厳しい縛りなのだ」と理解する必要があります。

では、どうすればよいのでしょうか。何とか解決しなければなりません。

しかし、ここまで根本的な問題を明らかにすることができれば、根本解決への道が開けてきます。

次回は、その根本解決の方向へ入っていきます。

今回はここで終わります。

第5回

皆さん、こんにちは。今回も、本当の自分を生きるための四つの方法について話を進めます。38歳のM子さんは、仕事と結婚の行き詰まりに苦しんでいます。今回はこころ分析の第5回として、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」の根本解決への道について考えます。

Kを続けていけば、一つには過労死やうつ病に至ることがあり、また休職に追い込まれることもあります。その意味で、Kは自滅のシナリオを持っています。

そして、もう一つ本当に大切なことは、Kのままでは結局、本当の自分を生きることができないまま人生が終わってしまうということです。これは非常に残念な結果です。

したがって、Kを根本的に解決していく必要があります。そのためには、一つずつ順番を追って考えていかなければなりません。

解決への第1歩は、「Kは目的なのか、それとも手段なのか」と問うことです。M子さんにとって、Kは目的なのでしょうか。それとも手段なのでしょうか。まず、ここから始めます。

これまでの分析から、M子さんのKは「手段」であることがわかってきました。

Kそのものが目的だという人を、私はあまり見たことがありません。とにかく相手を倒すこと、人に勝つことが三度の食事より好きだ、というような人が全くいないとは言いませんが、少なくとも私の経験では、ほとんど見たことがありません。

もちろん、最初から本人にそれがわかっているわけではありません。しかし、いろいろと話を聞いていくと、「Kをするのは、何かを得るためなのではないか。そうであれば、Kは目的ではなく手段なのではないか」というところへ、だんだん進むことができます。

このプロセスは非常に大切です。もしKが手段であるのに、そのことに気づかないままであれば、とても残念なことになります。M子さんは幸い、Kは手段であることに気づくことができました。

では、何のための手段だったのでしょうか。

Kをすること、すなわち人に自分の存在価値を認めさせることによって、何を得ようとしていたのでしょうか。前回、その答えはZ・N・Sであることが見えてきました。

Zは、死の恐怖から逃れたいということです。

Nは、親の愛が欲しいということです。

Sは、親の笑顔を見たいということです。特に、「親の悲しい顔を見たくない」と表現した方が、より適切かもしれません。

つまり、KはZ・N・Sを満たすための手段だったということです。この三つが重なると、非常に強力な縛りになります。そのため、簡単にKをやめることはできません。

まずNから見ていきます。

Nは、「親の愛が欲しい」という子供の部分です。では、このNから解放される道はあるのでしょうか。

親の愛は、本当に欲しいものだと思います。そのため、この欲求から簡単に逃れることはできません。

特に疑問になるのは、「大人に成長したのに、なぜ親の愛を求め続けるのか」ということです。小さい子供であれば、親の愛を求めるのは当然です。しかし大人になり、自分で十分に生きていけるようになっているのに、なぜなお親の愛を求め続けるのでしょうか。そして、そのために苦しむのであれば、やめればよいではないかと思うかもしれません。

しかし、そこには理由があります。

解決への第2歩は、「親は二人いる」と理解することです。

一人は、「条件付きの愛の親」です。

もう一人は、「無条件の愛の親」です。

もちろん、実際に親が二人いるという意味ではありません。同じ親の中に、条件付きの愛を示す面と、無条件の愛を与える面があるという意味です。この二つを区別して理解することが非常に大切です。

Nの縛りから抜け出すには、この点をよく理解する必要があります。

まず、「条件付きの愛の親」から見ます。

M子さんは4人きょうだいの長女で、一番上のお姉さんです。私は、こうした状態を「お姉ちゃん病」と呼んでいます。

親からは、「しっかりした子になりなさい」「不安な子では駄目」と求められます。そして、「そうしなければ捨てられる」という恐怖が生じます。その根底にはZ、死の恐怖があります。

これはまさに条件付きの愛です。「しっかりしていれば愛される」という条件がついています。単に自分自身であるだけでは足りません。

この条件付きの愛が、M子さんの中では、親の印象として長く残り続けていると考えられます。

しかし、もう一人の親がいます。それが「無条件の愛の親」です。

子供が生まれたばかりの頃、親の愛情は基本的に無条件です。私は、これを「ゆりかごの愛」と呼んでもよいと思います。

安心でき、温かく、とても嬉しい雰囲気の中で包まれます。子供はまだ小さいため、その記憶の多くは無意識になっているかもしれません。

しかし、意識では覚えていなくても、無意識の中では確かに覚えています。しかも、この無条件の愛は他では得がたいものです。そのため、生涯それを求め続けることがあります。

この「もう一人の親」、すなわち無条件の愛の親がいることを理解する必要があります。

M子さんの場合、下のきょうだいが生まれるまでは一人っ子でした。幼い時期には、親から無条件の愛を受けていたと考えられます。

しかし次の子供が生まれると、「お姉ちゃんだから、しっかりしなさい」と求められるようになります。しかも4人きょうだいで、下に3人います。親も忙しく、M子さんには、ますます「しっかりしたお姉さん」であることが求められます。

その結果、親の愛は条件付きの愛として感じられるようになります。「しっかり生きる」という条件を満たすため、M子さんは一生懸命頑張って生きてきました。

しかし、M子さんが本当に欲しいのは、無条件の親の愛です。

ところが、大人になった現在の親に求めても、幼い頃に得たような無条件の愛は戻ってきません。得られないからこそ、求め続けることになります。

しかも、他の人の愛では代わりになりません。欲しいのは、幼い頃に親から得た無条件の愛だからです。その無条件の愛を得られない限り、親に求め続けることをやめられません。

通常、私たちは「親は二人いる」とは考えません。条件付きの愛の親と、無条件の愛の親を分けて理解することもありません。親は一人だと思っています。

そして、目の前にいる現在の親は、多くの場合、条件付きの愛を示す親です。一生懸命やっても認めてくれないと感じ、腹が立つこともあるでしょう。それでも、なぜか親から離れられません。

「他の人の愛を求めればよいではないか。人はたくさんいる」と考えることもできます。しかし、それでは満たされません。そのため、結局は親の愛を求め続けます。

この「親は二人いる」という考え方は、非常に大切です。これを理解できれば、解決への道が見えてきます。

Nの解決は、「無条件の愛を得ること」です。

「もう得られないから諦める」「切り捨てる」と考えても、根本的な解決にはなりません。無意識の中で、無条件の愛を求め続けているからです。

したがって、本当の解決のためには、無条件の愛を得る必要があります。

しかし、幼い頃のような無条件の親の愛は、もう同じ形では存在しません。では、存在しないものを、どうやって得るのでしょうか。

そのために私が長く取り組んできたのが、「存在価値の心身医学」の四つの方法です。こころ分析、ゼロ体験、生かされてる医学的事実、そしてサポートです。

この四つの方法を行うことによって、親からではなくても、幼い頃に親から得たような無条件の愛を得ることができる、と私は考えています。

この点については、さらに後の解決編で詳しく話します。

次の縛りは、Sです。「親の笑顔を見たい」「親の悲しい顔を見たくない」という自分です。これは非常に強い縛りになります。そのためにKを続けざるを得なくなることがあります。

では、Sをどう解決していけばよいのでしょうか。

解決への第3歩は、「Sには四種類ある」と理解することです。

Sは「人の笑顔を見たい自分」ですが、四つに分けて考えます。

第1は「損得のS」です。

第2は「自己投影のS」です。

第3は「道徳のS」です。

第4は「YuのS」です。

いずれも「人の笑顔を見たい自分」ですが、意味は異なります。M子さんの場合には、特に「親の笑顔を見たい自分」に限定されるため、縛りがさらに強くなっています。この四つを分けて見ていくことが、解決への第3歩です。

まず、「自己投影のS」について見ます。

自己投影のSは、Sの中でも最も強く、自分を追い詰めやすいものです。しかも、簡単にやめることができません。

自己投影のSは、幼少時に十分な愛をもらえなかった人に多く見られます。つらい経験や、苦しい思いをした記憶があると、他人を見たときに、そこへ自分自身を投影してしまいます。

「自分もそうだった。自分もそのように苦しんだ」と感じるため、「すぐに助けに行かなければならない」と思います。その結果、簡単に自分を犠牲にしてしまいます。ここが最も大きな問題です。

この関係を、新型ストレスの図で見ます。

第1の自分は、「自分を生きたい自分」です。第2の自分は、「社会適応しようとする自分」です。その葛藤を生きているのが第3の自分です。

ところが、自己投影のSは第1の自分に属します。第1の自分は主体的・自発的です。自己投影のSも、「自分が助けたい」と思う主体的・自発的な自分です。

したがって、「自分を生きたい自分」と「自己投影のS」は、どちらも第1の自分です。その第1の自分の内部で葛藤が起こります。

普通の新型ストレスでは、第1の自分と第2の自分が葛藤するため、構造が比較的わかりやすいものです。「社会適応はしたくない自分」と、「社会適応しなければならない自分」がぶつかります。

しかし、自己投影のSでは、第1の自分同士が葛藤します。同じ第1の自分の中でぶつかるため、何が何だかわからなくなりやすく、非常に厄介です。

まず、「自分を生きたい自分」の方が大きい場合を考えます。

この場合、自分を優先します。相手を「かわいそうだ」と思っても、助けずにその場を離れます。

しかし後になって、「助けるべきだったのではないか」「自分は自己中心的ではないか」と後悔し、自分を責めるようになります。そのため、別の苦しみに陥ります。

次に、「自分を生きたい自分」と「自己投影のS」が、同じくらいの大きさの場合です。

自分を優先して生きるべきなのか、それとも「かわいそうだ」と感じる相手を助けに行くべきなのか、判断できなくなります。

一方を取れば、もう一方を裏切ることになります。自分を取れば、「助けなければならなかった」と思います。助けに行けば、「自分の人生を生きられない」と感じます。

その結果、日々消耗していきます。この第1の自分同士の葛藤が長く続き、何が何だかわからない自分になっていきます。

最後は、「自己投影のS」が圧倒的に大きい場合です。

この場合、「かわいそうだ」「何とかしなければならない」という思いが一気に前面に出ます。自分自身のことは、どうなってもよいとさえ思います。

同じ第1の自分の中で、自己投影のSが圧倒的に大きいため、「自分を生きたい自分」は非常に小さくなります。その結果、簡単に自分を犠牲にしてしまいます。

本当の自分を生きることは到底できず、結果として自滅してしまいます。

しかも、自分を相手に投影しているため、自分の中の過去の苦しみを相手に重ねています。実際には、相手の方は本人が思うほど苦しんでいない場合も少なくありません。

では、自己投影のSの解決策は何でしょうか。

それは、「本当の存在価値を得ること」です。

言い換えれば、「自分を喜べるようになること」です。

自分を喜べるようになると、過去の「かわいそうな自分」が次第に消えていきます。そして、過去の楽しかったことが蘇ってきます。

過去の記憶は、常にある程度脚色されています。過去に起こったすべてが、そのまま均等に残っているわけではありません。特に関心の強い部分が繰り返し思い出され、大きくなっていきます。

そのため、自己投影のSが強い人では、「かわいそうな自分」の記憶が大きくなっています。

しかし、自分を喜べるようになれば、その「かわいそうな自分」が小さくなり、代わりに楽しかった記憶が蘇ってきます。そうすると、自己投影のSそのものが次第に消えていきます。

したがって、自己投影のSの解決策は、「本当の存在価値を得ること」です。

次に、「損得のS」と「道徳のS」を見ます。

これらも、存在価値の問題と関係します。

自分の存在価値が低下すると、不安が強くなります。その結果、損得に強くこだわるようになります。これが損得のSです。

また、自分の存在価値が低下し、不安が強くなると、人からの評価が気になります。周囲の人の評価や世間の評価が気になるようになります。これが道徳のSに関係します。

つまり、損得のSと道徳のSは、自分の存在価値が低下することによって強く囚われ、支配されるものです。

したがって、この二つについても、解決は「本当の存在価値を得ること」です。

もう一つ、Sには「無条件に人の笑顔を見たい自分」があります。これがYuのSです。

これは非常によいものです。無条件に人の笑顔を見たいという気持ちが起こると、心が温かくなります。その瞬間、過去の囚われや性格の縛りが消えるように感じられ、不思議な「生きている実感」も感じられます。

しかし、これは「ふとした」ものですから、すぐに消えてしまいます。それでも非常に素晴らしいものであり、育てていきたい自分です。

これは、Yu、「ふとした優しさが好きな自分」に通じます。このYuについても、解決編で重要なものとして取り上げます。

以上のように、Sの解決も、「本当の存在価値を得ること」が中心になります。

では、どうやって本当の存在価値を得るのでしょうか。

そのために行うのが、「存在価値の心身医学」の四つの方法です。こころ分析、ゼロ体験、生かされてる医学的事実、そしてサポートです。

これらによって本当の存在価値を得ていくということを、解決編でさらに詳しく説明します。

Kの原因がZ・N・Sである場合、その縛りは非常に強烈です。そのまま進めば、過労死に至ることもあり、うつ病になることもあり、休職に追い込まれることもあります。最悪の結果に至る可能性もあります。そのため、何としても解決する必要があります。

今回は、根本解決への道筋として三つの段階を見ました。

第1歩は、「Kは目的なのか、手段なのかを問うこと」です。

第2歩は、「親は二人いる」と理解し、Nの解決は「無条件の愛を得ること」であると知ることです。

第3歩は、「Sには四種類ある」と理解し、その解決には「本当の存在価値を得ること」が重要であると知ることです。

次回は、Z、死の恐怖の根本解決への道を見ていきます。

今回はここで終わります。

 

 

第6回

皆さん、こんにちは。本当の自分を生きるための四つの方法について、38歳のM子さんの仕事と結婚の行き詰まりを例に話を進めています。今回はこころ分析の第6回です。

今回は、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」の原因となっているZ、死の恐怖について、その根本解決への道を考えます。

前回までに、M子さんの問題の中心にはKがあることが見えてきました。そしてKは目的ではなく、手段でした。

何のための手段かといえば、Z、死の恐怖から逃れるため、N、親の愛を得るため、そしてS、親の笑顔を見るためです。つまり、Z・N・Sを満たすための手段としてKを続けていたため、Kから簡単に離れることができませんでした。

NとSについては、これまでに説明しました。今回はZ、死の恐怖について考えます。

死の恐怖は非常に難しい問題であり、しかも最も重要な問題の一つです。一緒に考えていきます。

死の恐怖には、大きく二つの側面があると思います。

一つは、「死んだら灰になっておしまいであり、虚無になる」という恐怖です。

もう一つは、「霊や悪魔がいる、地獄がある」という恐怖です。

多くの人は、この二つが混ざり合った状態で生きているのではないかと思います。「死んだら灰になって何もなくなる」という虚無への恐怖と、「悪魔や霊がいる、地獄がある」という恐怖を、両方とも抱えています。どちらにしても怖いものです。

そこで、解決への第4歩として、この死の恐怖をどう考えればよいのかを見ていきます。

方法は、「死んだら灰になっておしまいである」「悪魔や霊がいる、地獄がある」という考えは、本当に事実なのか、と問うことです。ここが解決への道筋になります。

まず、「死んだら灰になっておしまい」という考えを見ます。

これはしばしば、「科学的事実である」と考えられています。しかし、本当に科学的事実なのでしょうか。ここをきちんと見ていく必要があります。

「私は細胞から発生している。だから細胞が死ねば私も死ぬ。死んだら灰になっておしまいである」というのが、一連の考え方だと思います。

図にすると、細胞から身体ができ、その身体から「私」が発生している、と考えます。そして細胞が死ねば身体も死に、「私」も消滅する。多くの人は、この考え方を科学的事実だと思っています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。ここが最大のポイントです。

少し難しいところですが、大切なので丁寧に考えます。

科学は、測定できるものについて事実を明らかにする学問です。測定できるもの、すなわち長さ、重さ、速さなどを持つものが対象になります。測定できるから実験ができます。そして、同じ条件を満たせば、いつでも、どこでも再現できるという再現性があります。これは科学にとって非常に重要です。

一方、測定できないものは実験できません。そのため、科学の対象にはできません。

では、「本当の私」は測定できるのでしょうか。

「本当の私は3メートルあるから、この部屋に入らない」「私を500グラム分けてあげる」「私が時速50キロで飛んでいった」というようなことはありません。

つまり、「本当の私」は長さ、重さ、速さで測定できないということです。

先ほどの図に戻ると、細胞は測定できます。長さも重さもあり、さまざまな方法で測定できます。

一方、「本当の私」は測定できません。したがって実験できず、科学の直接の対象にはできない、ということになります。

測定できる細胞から、測定できない「本当の私」が発生するのかどうかは、実験で確かめることができません。したがって、「死んだら灰になっておしまいかどうか」も、科学では決めることができない、ということになります。

「私は細胞から発生している。細胞が死ねば私も死ぬ。死んだら灰になっておしまいである」という考えは、ここでは「唯物論」というものの考え方として捉えます。これは、そのまま科学そのものではありません。

私たちが日常的に当然のように考えている「死んだらすべて終わり」という見方は、唯物論という世界観に基づいているのであって、科学によって直接証明された事実ではない、ということです。

ここで、唯物論と科学を区別しておく必要があります。

唯物論とは、すべてのものは物質から生じ、人間も物質から生じたと考える世界観です。この唯物論と科学を同じものだと思っている人がいますが、私はそれは誤解だと考えています。

科学は、測定できるものについて事実を明らかにする方法です。測定できないものは、科学の方法では直接対象にできません。ここは非常に大切な点です。

次に、「悪魔や霊がいる」「神や仏がいる」という考えを、どのように考えればよいのかを見ます。

これについても、「それは事実なのか」と問います。

「悪魔や霊がいる」「神や仏がいる」ということは、教祖やその他の人が語ってきたものです。しかし、それが客観的事実であることを、誰もが共有できる方法で証明することは困難です。

そこで、私たちホモ・サピエンスが持っている五つの認識方法について考えます。

私たちには、科学的認識能力があります。

論理的認識能力があります。

感情的認識能力があります。

感覚的認識能力があります。

そして、直感的認識能力があります。

私たちは、この五つの認識方法を用いて生きています。

まず科学的認識です。先ほど述べたように、測定できないものは科学の対象にはできません。しかし科学には、皆が共有できる客観的事実があります。ここが大きな特徴です。

次に論理的認識です。議論そのものは共有できますが、その議論だけによって、誰もが共有できる客観的事実が得られるとは限りません。

そして、「悪魔や霊がいる」「神や仏がいる」といった認識は、多くの場合、感情的認識、感覚的認識、直感的認識に属するものだと考えます。

これらは、直感、感覚、感情に基づくため、誰もが同じ形で共有できる客観的事実がありません。個人的な体験や主張になります。

そのため、それが事実かどうかを、全員が共有できる方法で証明する方法論がありません。ここが大きな特徴です。

したがって、「悪魔や霊がいる」「神や仏がいる」という問題は、結局は「信じるかどうか」という問題になりやすいと思います。

信じられる人は、それでよいと思います。しかし、あくまで個人が信じられるかどうかという問題であり、全員が共有できる事実とは別の問題です。

ここまでを整理します。

まず、「死んだら灰になっておしまいであり、虚無になる」という考えがあります。これは、ここでは唯物論という世界観です。すべてのものは物質から生じ、人間も物質から生じたと考えます。この見方は無神論と結びつくことが多く、「神は存在しない」という立場になります。

一方、「悪魔や霊がいる」「神や仏がいる」という考えは、唯心論や有神論の側に置くことができます。

唯心論では、すべてのものの根底に精神があると考えます。人間も物質も、精神的なものから生じると考えます。有神論では、神や仏などの超越的存在が存在すると考えます。

唯心論と有神論を同一視する人もいれば、別のものとして考える人もいます。しかし、ここでの共通点は、物質だけを根本とするのではなく、精神的なものを中心に置くことです。

私たちの死の恐怖は、一方では唯物論・無神論から生じる「死んだら虚無になる」という恐怖によって作られます。

もう一方では、唯心論・有神論の側にある「霊や悪魔、地獄などが存在するのではないか」という恐怖によって作られます。

多くの人は、この二つを混ぜ合わせた状態で生きています。どちらか一方を明確に選んでいるのではなく、両方を何となく信じ、両方の恐怖にさらされています。その結果、「何が何だかわからないが、とにかく死が怖い」という状態になります。

私たちにとって最も大切な死生観、すなわち「生とは何か、死とは何か」という問題について、歴史上、大きく分ければ二つの世界観が提示されてきました。

一つは、唯物論・無神論です。

もう一つは、唯心論・有神論です。

しかし、どちらも最終的には「信じる」という世界に属します。

先ほど述べたように、唯物論そのものは科学的事実と同一ではありません。また、唯心論・有神論についても、全員が共有できる客観的事実として証明することはできません。

私たちは、そのように事実かどうかを完全には確定できない世界観の上に立って、死について考えてきたということです。それでは怖くなるのも当然です。

さらに科学も、「本当の私」がどこから発生し、どこに存在し、死んだらどうなるのかを証明することはできません。「本当の私」が測定できない以上、科学の直接の対象にはできないからです。

唯物論・無神論、唯心論・有神論、そして科学のいずれによっても、「本当の私」がどこから発生し、どこに存在し、死んだらどうなるのかを完全に証明することはできないのではないか、という問題が残ります。

ところが、私たちは自我に目覚めた現代人です。自我はどんどん大きく育っています。その自我の大きな願いは、「本当の自分を生きたい」ということです。

もちろん安心して生きることも必要です。しかし、それだけでは本当に喜んで生きることはできません。

一方で、Z、死の恐怖に縛られていると、自分を自由に生きることができません。M子さんのように、K、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」で生きざるを得なくなり、本当の自分を生きることができなくなります。

これは、自我が大きく育った現代人にとって、非常に大きな問題です。では、どうすればよいのでしょうか。

私たちは、何とかこの問題を解決しなければ、喜んで生きることも、本当の自分を生きることもできません。

そこで、もう一度、五つの認識能力を見ます。

科学的認識には、少なくとも誰もが共有できる客観的事実があります。

一方、論理的認識、感情的認識、感覚的認識、直感的認識には、科学と同じ意味で全員が共有できる客観的事実が必ずあるわけではありません。

そうであれば、まず私たちは、皆が共有できる事実に立ち、そこから出発すべきではないかと考えます。

その意味で、科学は非常に素晴らしいものです。

まず、科学は私たちを迷信や偏見から解放してくれました。

また、物質的な豊かさを与えてくれました。

その結果、私たちの自我は大きく成長することができました。

そして何より、科学、特に医学は、「生かされている医学的事実」の世界の素晴らしさを見せてくれます。これは、主として近代になって明らかにされてきた世界です。

まず、私たちは大きな生命の世界の中で、生かされて生きているという事実を見ることができます。

人間は誰でも、一個の受精卵から始まり、最終的には約37兆個の細胞からできています。

仮に、頭の先から一秒間に五個ずつ細胞を数えていくとします。全部を数え終えるには、約100年を2500回繰り返すほどの時間が必要になります。

それほど膨大な数の細胞がありますが、その一個さえ、自分の意思で作ったものではありません。

中学校で習うように、一個の細胞が二つに分かれ、その一つ一つがさらに分かれ、最終的に約37兆個になります。

一秒間に五個ずつ数えても、100年を2500回繰り返さなければ数え切れないほどの細胞によって、私たちは今、生かされています。

しかも、一個の細胞でさえ非常に複雑です。そこから細胞がさまざまに分化し、肺、心臓、肝臓、胃や腸、血管など、さまざまな臓器や組織になります。そして、それらが素晴らしい法則と美しい調和のもとに働き、生命を保っています。だから私たちは生きることができます。

その一例として、腎臓を見ます。

腎臓は左右に一個ずつあり、長さは約10センチ、重さは約120グラムほどの臓器です。

腎臓には血管が入り、次第に細く枝分かれし、その先に腎小体という濾過装置があります。腎小体は、一個の腎臓に約100万個あります。

腎臓には多くの働きがありますが、その一つが血液の濾過です。

腎動脈から入った血液が糸球体まで運ばれ、そこで濾過されます。原尿が作られ、その後、大部分が再吸収され、残ったものが尿になります。

一日に約180リットルが濾過され、その約99%が再吸収され、最終的に約1.8リットルが尿として排出されます。

ここで注目したいのは、血管の構造です。

一本の腎動脈が腎臓に入り、次々と細く枝分かれし、最終的には非常に細い血管が糸球体を作ります。それが約100万個あります。

そして濾過の後、血液は静脈系へ戻り、多数の細い静脈が集まって一本の腎静脈となり、心臓の方向へ戻っていきます。

一本の比較的太い動脈から、膨大な数の細い血管が形成され、しかもそれぞれが精密な濾過構造を作っているということです。

さらに、これらは一個の受精卵から発生してきます。

胎児の発生を見れば、最初は非常に小さな構造から始まり、成長するにつれて腎臓の形ができていきます。

血管系が形成される過程と、ボーマン嚢など腎小体の構造が形成される過程は、それぞれに進みながら、最終的には血管が近づき、糸球体とボーマン嚢が精密に組み合わさった腎小体が完成していきます。

赤ちゃんが成長するにつれて、こうした構造が自然に作られていきます。これは腎臓だけではありません。他の臓器についても、それぞれに極めて複雑な構造が、一個の受精卵から作られていきます。

さらに、身体は心身相関の中で働いています。

心と自律神経系、ホルモンを含む内分泌系、免疫系などが一体となって働き、全体が調和するように刻一刻と調節されています。それによって私たちの生命は保たれています。

そして、私たちの身体だけが素晴らしいのではありません。

私たちは酸素を必要とします。食べ物も必要です。

植物は、太陽の光、二酸化炭素、水を用いて光合成を行い、酸素やデンプンなどの有機物を作ります。それを小さな動物が食べ、さらに大きな動物が食べ、最終的に人間が食べることもあります。あるいは、人間が植物を直接食べます。

このような食物連鎖を含む大きな生命の世界があるからこそ、私たちは生きています。

心臓は、一日におよそ10万回動いています。その一回でさえ、自分の意思で動かしているわけではありません。

太陽も、酸素も、水も、自分で作ったものではありません。

私たちは大きな生命の世界の中で、医学的に見て、素晴らしい法則と美しい調和によって生かされて生きています。

この話は、ときに宗教の話と誤解されます。しかし、ここで言っていることは、宗教や道徳の話ではありません。まず、医学的・科学的に確認できる事実の世界を見ているということです。

私たち人間が生きている姿を考えると、大きな生命の世界の中で、医学的に素晴らしい法則と美しい調和によって生かされている存在だと言えます。

一方、人間は本能だけに従って生きる存在ではなくなったため、食事や身の安全を確保するために社会を営みます。社会的存在価値も大切ですが、それは衣食住や身の安全を得るために必要な側面でもあります。

つまり、私たちは大きな生命の世界の中で生かされながら、その一方で、本能だけに頼らず、食事や身の安全を得るために社会を営んでいる存在だと考えることができます。

ただし、ここまで話しただけで問題が解決するわけではありません。これは解決への一本の道筋です。

大切なのは、何を道筋として出発するかです。

私たちは、自我に目覚めた現代人です。だからこそ、皆で共有できる事実を基にして考えていく必要があるのではないでしょうか。

そのため、私は「医学的事実のみを原点としよう」と考えます。

この原点から、Z、死の恐怖の本当の解決を探っていきます。

その際にも、こころ分析、ゼロ体験、生かされてる医学的事実、サポートという四つの方法を用いながら、解決を探っていきます。

まとめます。

M子さんの問題の中心にはK、「人に自分の存在価値を認めさせようとする自分」がありました。

そのKの原因には、Z、死の恐怖、N、親の愛が欲しい自分、S、親の笑顔を見たい自分があります。Z・N・Sによって、Kは非常に強く縛られていました。したがって、そこから自由になっていく必要があります。

前回と今回で、Z・N・Sを根本的に解決していくための第1歩から第4歩までを見てきました。ただし、まだ「解決そのもの」に到達したわけではなく、解決へ向かう道筋を確認した段階です。

次回からは、これらを土台として、いよいよ本当の解決に入っていきます。

今回はここで終わります。

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