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「生かされてる医学」の手引き

― 死とは何か。私は偶然か、必然か。
その問いから始まる新しい心身医学 ―

本書の目的

この手引きは、結論を信じてもらうためのものではありません。死、生、存在価値、本当の自分について問いを持つ方に、「生かされてる医学」という一つの考え方と方法を知っていただき、自分自身で学ぶかどうかを選んでいただくための案内です。

中心となる考え方
医学的・科学的事実を見る → こころ分析をする → ゼロ体験を重ねる → 理解 → 確信 → 実感
※ 学ぶかどうか、どこまで受け入れるかは本人が自由に選びます。

 

 

目次

はじめに なぜ「死」から始まるのか

第1章 「私は偶然か、必然か」という問い

第2章 出発点となる「生かされている医学的事実」

第3章 なぜ頭で考えるだけでは足りないのか

第4章 四つの方法

第5章 こころ分析―私の中には、たくさんの「自分」がいる

第6章 現代人を苦しめる「新型ストレス」

第7章 存在価値を社会からもらおうとすると、なぜ苦しくなるのか

第8章 「何もない私が素晴らしい」―本当の存在価値

第9章 Yuとは何か―「信じなさい」ではなく、たどり着く理解

第10章 死は「私」の終わりなのか

第11章 FとYu、そしてFYu―本当の自分を生きる

第12章 五つの発見

第13章 AI時代に、なぜ「本当の存在価値」が必要になるのか

第14章 これは宗教なのか、医学なのか

第15章 学ぶ人に求められるのは「信仰」ではなく「問い続けること」

第16章 どのような人に知ってほしいか

おわりに 知ることから、選択が始まる

 

 

はじめに なぜ「死」から始まるのか

私にとって、人生の最大の問題は「死」でした。人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。私はどこから来たのか。私は偶然に生じた存在なのか、それとも、ここに存在することには必然性があるのか。そして身体が死ぬとき、「私」もすべて消えてしまうのか。この問いを曖昧なままにして、生きる意味を考えることはできませんでした。

人間は本能だけに従って生きる動物ではありません。自我に目覚め、「私は私である」と感じ、自分の人生について考えます。だからこそ、自分がいつか死ぬことも知っています。衣食住が満たされ、社会生活がうまくいっていたとしても、「最後には死んで消えてしまうのなら、私は何のために生きるのか」という問いは残ります。

宗教は、死や人生について多くの答えを与えてきました。哲学も、人間とは何か、存在とは何かを長く考えてきました。道徳は、どのように生きるべきかを教えてきました。しかし、私には、それらをそのまま信じることだけでは十分ではありませんでした。現代の自我を持つ自分自身が納得できる方法が必要でした。

一方、科学は非常に大きな力を持っています。身体の構造、細胞の働き、遺伝子、神経、ホルモン、免疫など、存在しているものについて、その性質や相互関係を詳しく明らかにしてくれます。しかし「なぜそれが存在するのか」「その存在が究極的に偶然なのか必然なのか」という問いは、科学が通常扱う測定や再現実験とは性質が異なります。

そこで私は、「信じるか、信じないか」だけではない別の道を探しました。それが「生かされてる医学」の出発点です。この手引きは、結論を押しつけるためのものではありません。死、生、存在価値について考えたい方に、「このような考え方と方法もある」と知っていただくための案内です。学ぶかどうか、受け入れるかどうかは、一人一人が自由に選ぶものです。

* * *

第1章 「私は偶然か、必然か」という問い

「私は偶然の産物なのか、それとも必然として存在しているのか」。生かされてる医学では、この問いを非常に重要なものとして扱います。

もし生命の世界が、何の方向性もなく偶然だけによって成立したと考えるなら、そこに創造者を考える必要はありません。そして、身体の働きから「私」が生じ、身体が死ねば「私」も消滅すると考える方向へ進みやすくなります。

一方、生命の世界に必然性があると実感するなら、「この世界を成り立たせているものは何か」という問いが生まれます。生かされてる医学では、そこから創造者の存在を考えます。そして、その創造者を「Yu」と呼びます。

ただし、ここで最初から「必然である」「Yuがいる」と信じることを求めるわけではありません。大切なのは、自分自身で問い続けることです。医学的・科学的に共有できる生命の事実を繰り返し見つめ、自分の心の偏りや過去からの影響をこころ分析で明らかにし、ゼロ体験によって過去の自己像から一時的に離れた状態でもう一度考える。その過程を繰り返します。

生かされてる医学が目指すのは、誰かの結論を暗記することではありません。「理解した」だけで終わるのではなく、自分の中で理解が深まり、確信になり、最後には実感として感じられるところまで進むことです。

ここでいう「実感」は、科学的証明と同じ意味ではありません。科学的事実として共有できる部分と、その事実を長く見つめる中で本人が到達する理解・確信・実感は区別されます。この区別を大切にしながら、自分自身が納得できるところまで歩むことが、この方法の特徴です。

* * *

第2章 出発点となる「生かされている医学的事実」

生かされてる医学では、まず自分の身体を見ます。人間は一個の受精卵から始まります。その一個の細胞が分裂を繰り返し、現在の知見では人間の身体はおよそ37兆個の細胞から成ると考えられています。私たちは、その一個一個を自分の意思で作ったわけではありません。

心臓は一日におよそ10万回動きます。しかし、私たちは朝起きて「今日は心臓を10万回動かそう」と命令しているわけではありません。眠っている間も動き続けています。腎臓では大量の血液が濾過され、必要なものが再吸収され、不要なものが尿として排出されます。肺、肝臓、消化管、脳、免疫系、内分泌系、自律神経系も、互いに関係しながら生命を支えています。

さらに、身体だけを見ても生命は成立しません。酸素が必要です。水が必要です。太陽のエネルギーが必要です。植物の光合成があり、食物連鎖があり、大きな生命のつながりがあります。これらを自分一人で作った人はいません。

この事実を前にすると、「私は自分だけの力で生きている」と言い切ることは難しくなります。生かされてる医学では、まずこのことを「生かされている医学的事実」と呼びます。

ここでは、まだ創造者の存在を科学が証明したと言っているのではありません。まず共有できる事実として、「自分の意思をはるかに超えた膨大な生命活動によって、今この瞬間も生命が保たれている」ことを見るのです。そして、その見事な法則と調和は偶然なのか、必然なのかという問いへ進みます。

この順番が重要です。「Yuを信じなさい」から始めるのではありません。まず生命の事実を見る。その事実を自分の頭と体験の両方で繰り返し見つめる。その先に何が見えてくるのかを、自分自身で確かめていきます。

* * *

第3章 なぜ頭で考えるだけでは足りないのか

私たちは、重要な問題に出会うと、まず頭で考えます。これは当然です。しかし、死や存在価値の問題では、頭だけで考え続けると、同じところを何度も回ることがあります。

その理由の一つは、私たちの思考が「過去」に強く影響されているからです。幼少期の体験、親から言われた言葉、学校や社会で受けた評価、成功や失敗、傷ついた記憶などから、「自分はこういう人間だ」という自己像が作られます。そして現在を考えているつもりでも、実際には過去に作られた自己像を通して現在を見ていることがあります。

例えば、「人から認められなければ価値がない」と深く思い込んでいる人が、自分の存在価値を考えれば、どうしても社会的評価を基準にしてしまいます。「失敗したら見捨てられる」という不安が強い人が人生を考えれば、自由な選択より安全な選択ばかりを選びやすくなります。

そこで、生かされてる医学では、頭での理解に加えて「こころ分析」と「ゼロ体験」を用います。こころ分析は、自分の中で何が動いているかをできるだけ明らかにする方法です。ゼロ体験は、過去から作られた自己像や絶え間ない思考の支配が弱まった状態で、自分や生命を感じ直すための方法です。

つまり、生命の事実だけを見ても、自分の心が強い不安や思い込みに支配されていれば、事実をそのまま受け取れないことがあります。逆に、ゼロ体験だけを求めても、心の構造を理解せず、事実に基づく検討がなければ、単なる気分や思い込みに陥る危険があります。

そのため、複数の方法を同時に用い、互いに補いながら進むことが必要になります。

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第4章 四つの方法

生かされてる医学では、学びを四つの方法で進めます。第一は「こころ分析」、第二は「ゼロ体験」、第三は「生かされている医学的事実」、第四は「サポート」です。

第一のこころ分析では、自分の悩みを単純に「性格が悪い」「意志が弱い」と決めつけません。心には原因があり、複数の「自分」がそれぞれの理由で動いていると考えます。何を怖がっているのか、何を求めているのか、誰の評価を求めているのか、本当はどう生きたいのかを丁寧に見ていきます。

第二のゼロ体験では、丹田呼吸法などを通して、頭の中を占領している過去の思考から離れ、現在の自分を体験することを目指します。資料では絶食療法もゼロ体験の方法として扱われていますが、絶食療法は医学的管理を必要とする方法であり、自己流で長期の絶食を行うことを勧めるものではありません。

第三は、生かされている医学的事実を繰り返し見ることです。受精卵からの発生、細胞、臓器、循環、呼吸、食物連鎖など、自分の意思を超えて生命を支えている事実を何度も確認します。

第四のサポートは、学びを独りよがりにしないために重要です。人は自分一人で考えていると、自分に都合のよい解釈をしたり、逆に必要以上に自分を責めたりすることがあります。学習と対話、カウンセリングなどによって、自分の歩みを客観的に見直します。

四つは別々の講座ではありません。同時に繰り返します。生かされてる医学では、この過程を「螺旋階段を上る」ようなものと考えます。同じことを繰り返しているように見えても、少しずつ理解の深さが変わります。理解が確信に変わり、確信が実感へ近づいていきます。

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第5章 こころ分析―私の中には、たくさんの「自分」がいる

私たちは普段、「自分」を一人だと思っています。しかし心を丁寧に見てみると、同じ人の中に異なる願いを持った多くの「自分」がいることに気づきます。

生かされてる医学の自分分析では、例えば、評価や愛をもらうために良い子になろうとする自分、人に合わせて社会適応しようとする自分、快楽を求める自分、自由気ままに生きたい自分、人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、人の笑顔を見たい自分、本当の自分を生きたい自分、ふとした優しさが好きな自分、死を恐れる自分などを区別して見ます。

これらは、どれか一つが「悪い自分」ということではありません。それぞれが生まれた理由があります。例えば、人から認められようと頑張る自分は、単に傲慢だから存在するとは限りません。その奥に「親から愛されたかった」「見捨てられるのが怖かった」「自分には価値があると確かめたかった」という願いが隠れていることがあります。

大切なのは、表面だけを叱らないことです。「もっと頑張れ」「気にするな」「プライドを捨てろ」と言っても、根底にある不安や愛への願いがそのままなら、同じ心の動きは繰り返されます。

こころ分析の目的は、自分を裁くことではありません。「なぜ私はこうなったのか」を、できるだけ正確に知ることです。原因がわかると、得体の知れない苦しさが、「起こるべくして起こっている心の動き」として見えるようになります。そこから初めて、根本的な解決を考えることができます。

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第6章 現代人を苦しめる「新型ストレス」

現代人には、「自分を生きたい」という気持ちが大きく育っています。一方で、食べていくためには社会に適応しなければなりません。生かされてる医学では、この二つを「第1の自分」と「第2の自分」として捉えます。

第1の自分は、自分を生きたい自分です。主体的で、自発的で、「私はこうしたい」と感じます。うまくいかなければ不満が生じます。第2の自分は、社会に適応しようとする自分です。生活や安全、評価を守るために周囲に合わせます。うまくいかなければ不安が生じます。

問題は、この二つが長く葛藤するときです。「本当は辞めたい。でも生活がある」「自分らしく生きたい。でも失敗が怖い」「人に合わせたくない。でも嫌われたくない」。どちらも捨てられず、心の中で葛藤が続きます。

この状態を、第3の自分として生きることになります。判断ができない、何をしてもすっきりしない、充実感がない、疲れる、イライラする、無気力になる。「自分は怠け者になった」と責める人もいます。しかし、長い葛藤によって心身が消耗している可能性があります。

もちろん、疲労、不眠、食欲低下、動悸、頭痛などがあるときには、まず身体的・精神医学的な病気の有無を適切に診断することが大切です。生かされてる医学は、必要な医療を否定するものではありません。

そのうえで、病気だけでは説明できない苦しさが続くとき、「私の中でどの自分とどの自分が葛藤しているのか」と見ると、苦しみの構造が見えてくることがあります。

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第7章 存在価値を社会からもらおうとすると、なぜ苦しくなるのか

現代社会では、仕事ができる、成績がよい、収入が多い、肩書がある、人から必要とされる、といったことが高く評価されます。これらは社会生活の中では意味のあることです。しかし、それを「私が存在してよい証明」にまでしてしまうと、非常に苦しくなります。

自分の存在価値を人から認めてもらおうとする自分を、生かされてる医学ではKと呼びます。Kは、人より上であること、失敗しないこと、評価を落とさないことを求めます。しかし競争社会では、永遠に勝ち続けることはできません。年齢を重ねれば能力も変わります。病気になることもあります。失敗もあります。他人の評価は自分では完全にコントロールできません。

それでも、社会的評価が自分の存在価値そのものになっていれば、失敗は単なる失敗ではなく、「自分には価値がない」という恐怖になります。そのため、さらに頑張り、さらに疲れ、客観性を失い、かえって失敗が増えることがあります。

ここで、生かされてる医学は「社会的存在価値」と「本当の存在価値」を分けます。社会的な能力や評価は、社会の分業に参加するために役立つものです。能力を磨くことも、仕事で成果を出すことも否定しません。しかし、それは「私が存在してよいかどうか」を決めるものではないと考えます。

この区別ができなければ、人は生涯、社会から存在価値をもらい続けなければなりません。逆に、本当の存在価値を別のところに持てれば、社会では自分の能力を使って分業に参加しながら、評価に人生全体を支配されずに済むようになります。

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第8章 「何もない私が素晴らしい」―本当の存在価値

生かされてる医学では、生命の事実を繰り返し見つめる中で、「私は大きな生命の世界の中で非常に大切に生かされている」という理解へ進みます。

生命は、私たちが代金を払って受け取ったものではありません。「立派な人間になるなら心臓を動かしてあげる」という条件も付いていません。眠っている間も、失敗した日も、落ち込んでいる日も、生命活動は続いています。

このことを、生かされてる医学では「無条件・無償で生かされている」と見ます。そして、それが必然であるという確信が深まると、その背後に限りなく優しい創造者を考えるようになります。その創造者を、優しさの「優」からYuと名づけています。

ここから、「本当の存在価値」という考えが生まれます。何かを成し遂げたから価値があるのではない。人より優れているから価値があるのでもない。社会から高く評価されたから初めて価値が生まれるのでもない。「こうして存在していること自体が大切である」と感じる世界です。

これを「何もない私が素晴らしい」と表現します。「何もしなくてよい」「努力しなくてよい」という意味ではありません。何も肩書がなくても、何も証明できなくても、存在そのものの価値は失われない、という意味です。

存在価値が確保されて初めて、能力を自由に使えるようになります。能力は、自分の価値を証明する武器ではなく、社会の分業の中で人に役立てるものになります。失敗しても存在価値までは失いません。成功しても、それによって他人より人間として上になるわけではありません。

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第9章 Yuとは何か―「信じなさい」ではなく、たどり着く理解

Yuという言葉を聞くと、「宗教ですか」と感じる方がいるかもしれません。それは自然な反応です。生かされてる医学では、Yuを宗教的教義として最初に与え、それを信じることから始めるわけではありません。

出発点は、医学的・科学的に見ることのできる生命の事実です。一個の受精卵から身体が作られ、膨大な生命活動が調和して働き、大きな生命の世界の中で支えられている。その事実を「偶然か、必然か」という問いを持って見続けます。

そして、こころ分析で自分の思い込みや不安を知り、ゼロ体験を繰り返しながら、事実を見直します。その結果、「これは単なる偶然ではなく、必然ではないか」という理解が生まれ、それが確信となり、さらに実感に至る。そのとき、必然であるなら、その背後に創造者がいるのではないかという理解へ進みます。

さらに、生命が無条件・無償で与えられていることから、その創造者は限りなく優しいのではないかと考え、その存在をYuと呼びます。

これは「科学がYuの存在を証明した」という主張とは異なります。科学的に共有できる事実を土台にしつつ、こころ分析とゼロ体験を含む方法を繰り返した結果として、本人が理解・確信・実感へ進むという構造です。

だからこそ、他人に強制するものではありません。同じ方法を学んでも、同じ時期に同じ実感へ至るとは限りません。「自分はまだわからない」と感じる自由もあります。結論を急がず、自分の歩みとして確かめていくことが大切です。

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第10章 死は「私」の終わりなのか

死の問題は、生かされてる医学の中心にあります。

身体は測定できます。脳も神経細胞も測定できます。しかし、「私そのもの」は、長さや重さを測ることができません。意識や自己の成立について脳科学は多くを明らかにしていますが、「本当の私とは何か」「身体の死によって私が完全に消滅するか」という究極的な問いは、単純な測定だけで決着する問題ではありません。

生かされてる医学では、「死んだら灰になっておしまい」という考えも、一つの哲学的立場として見ます。それが科学によって最終的に証明された事実だとは考えません。同じように、死後の世界の具体的な姿を科学が証明したとも考えません。

そのうえで、生命が必然として存在し、限りなく優しいYuによって身体を与えられ、大きな生命の世界の中で生かされているという確信・実感へ進むと、死の見え方が変わります。身体は与えられたものであり、その身体が死ぬことと、「本当の私」が完全に消滅することを同一視しなくなります。

生かされてる医学では、ここから「死は私の終わりではない」という理解へ進みます。ただし、身体が死んだ後に「私」が具体的にどうなるかは、わからないとしています。そこを想像で埋めるのではありません。限りなく優しいYuに生かされているのであれば、その後のこともYuに任せる、という世界です。

死の恐怖を「怖がるな」と押さえ込むのではありません。死を考えることを避けるのでもありません。むしろ、死を真正面から問い、その問いに自分が納得できる方法で取り組む。その結果として、死への恐怖から少しずつ自由になり、本当の自分を生きることへ向かいます。

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第11章 FとYu、そしてFYu―本当の自分を生きる

こころ分析を続けると、多くの「自分」の中に、二つの大切な自分が見えてきます。

一つはF、「本当の自分とは何かわからないが、本当の自分を生きたいと願う自分」です。長く社会に合わせて生きてきた人に、「あなたは本当は何をしたいですか」と聞いても、すぐには答えられないことがあります。それはおかしなことではありません。自分を抑えることを長く続けてきたため、本当の願いが小さくなっているだけかもしれません。

特に大切なのがF5です。「今の生き方がうまくいかないから嫌だ」というだけではなく、「たとえうまくいったとしても、この生き方は自分の人生ではない」と感じる自分です。これは「本当の自分を生きたい」という自我の叫びと考えます。

しかし、Fだけでは十分ではありません。「自分らしく生きたい」だけが強くなると、単なる我の強さになり、周囲との関係を壊す可能性もあります。

そこで、もう一つ大切なのがYu、「ふとした優しさが好きな自分」です。見返りを求めず、ふと人の幸せや笑顔を願う優しさです。道徳だから親切にするのでも、評価を得るためでも、相手を自分に重ねて自己犠牲するのでもありません。「この優しさが好きだ」と自分の内側から感じるものです。

FがYuを見つけ、「私はこの優しさを生きたい」と選ぶとき、FとYuが一つになります。これをFYuと呼びます。生かされてる医学では、このFYuを育てることに根本解決があると考えます。

FYuは、一度理解したら完成するものではありません。ふと現れても、すぐに消えることがあります。四つの方法を繰り返し、FYuの体験を重ねながら少しずつ育てます。その結果、本当の自分を生きながら、周囲の人の幸せも喜べる生き方へ進むことを目指します。

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第12章 五つの発見

生かされてる医学では、長い学びの道筋を「五つの発見」として整理します。

第一は、「生かされているのは医学的事実である」です。自分の意思を超えた膨大な生命活動と、大きな生命の世界によって、私たちは今も生かされています。

第二は、「医学的に生かしてくれている、限りなく優しいYuが存在する」です。これは第一の医学的事実と同じ種類の科学的証明を意味するのではなく、事実を四つの方法で見続け、偶然か必然かを問い、理解・確信・実感を深めた先に到達する理解です。

第三は、「死は私の終わりではない」です。身体の死後に何が起こるかを具体的に断言するものではありません。身体の死を、本当の私の完全な消滅と決めつける必要はないという理解です。

第四は、「何もない私が素晴らしい」です。仕事、肩書、能力、評価がなくても、Yuの世界の中で大切に生かされている存在として、本当の存在価値があるということです。

第五は、「自分の山を登るのが人生の喜びである」です。自分の山とは、あらかじめ決まった職業や目標ではありません。「有名になる」「成功する」と先に形を決めると、他人の山をまねているだけかもしれません。本当の自分を一日一日生きた結果として、振り返ればそれが自分の山になっている、と考えます。

この五つは、覚えるための標語ではありません。一つ一つを、自分の人生と体験の中で確かめていくための道標です。

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第13章 AI時代に、なぜ「本当の存在価値」が必要になるのか

人工知能(Artificial Intelligence:AI)が急速に発達すると、「これまで人間にしかできないと思われていたこと」が次々に機械でできるようになります。文章を書く、画像を作る、情報を整理する、診断を支援する、計画を立てるなど、知的能力そのものが人間だけの特権ではなくなっていきます。

もし「頭がよいから価値がある」「仕事ができるから価値がある」「人より優れているから価値がある」という社会的存在価値だけで自分を支えているなら、AIの進歩は大きな脅威になります。自分より速く、正確に仕事をするAIが現れたとき、「では私は何のために存在しているのか」という問題が生じます。

ここで「AIにできないことを探して、人間の価値を守ろう」とするだけでは、根本的な解決にならない可能性があります。なぜなら、それも結局、「能力によって存在価値を証明する」という競争の枠組みに残るからです。今日AIにできないことも、明日はできるかもしれません。

生かされてる医学では、存在価値と能力を分けます。「何もない私が素晴らしい」という本当の存在価値を土台にしたうえで、自分の能力は社会の分業に使います。AIも同じく、競争相手としてではなく、分業を助ける道具として使うことができます。

この見方に立てば、人間の価値はAIとの能力比較によって増減しません。仕事が変わっても、能力が衰えても、存在価値そのものは失われません。そのうえで、「私は何を生きたいのか」「私の中のふとした優しさをどう生かすのか」という問いが残ります。

AI時代は、人間の価値を奪うだけの時代ではなく、これまで能力や競争に隠れていた「存在価値とは何か」を、社会全体が真正面から考えざるを得なくなる時代でもあります。生かされてる医学は、その問いに対する一つの選択肢を提示します。

* * *

第14章 これは宗教なのか、医学なのか

生かされてる医学を初めて知った方が、「宗教ではないのですか」と尋ねるのは当然だと思います。Yuという創造者を考え、死は私の終わりではないと語るからです。

しかし、生かされてる医学が大切にするのは、最初に教義を信じることではありません。出発点は、医学的・科学的に共有できる生命の事実です。そして、こころ分析とゼロ体験を含む方法を繰り返しながら、自分で確かめることを目指します。

一方で、Yuの存在や「死は私の終わりではない」という結論を、現在の科学が実験によって証明した事実であると主張するものでもありません。ここを曖昧にすると、生かされてる医学の特徴がかえってわかりにくくなります。

医学的事実は事実として扱う。そこから偶然か必然かを問い、こころ分析とゼロ体験を重ねて、本人が理解・確信・実感へ進む部分は、その方法による到達として扱う。この二つを混同しないことが重要です。

また、生かされてる医学は一般のカウンセリングや学習として用いられる場合、病気の診断や治療の代わりになるものではありません。身体症状や強いうつ状態、希死念慮などがあるときには、必要な医療を受けることが優先されます。そのうえで、人生、存在価値、死、本当の自分について学ぶ方法として位置づけることができます。

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第15章 学ぶ人に求められるのは「信仰」ではなく「問い続けること」

この方法を学ぶうえで、「最初からYuを信じられないといけないのですか」と心配する必要はありません。むしろ、わからないなら「わからない」としたまま進むことが大切です。

「本当に私は生かされていると言えるのか」「生命は偶然なのか必然なのか」「Yuという理解に自分は納得できるのか」「死は本当に私の終わりではないのか」。疑問を持ったまま、事実を見て、自分の心を見て、体験を重ねます。

急いで結論だけを借りると、それは他人の答えを自分の答えにしただけになってしまいます。生かされてる医学が目指すのは、誰かの山を登ることではなく、自分の山を登ることです。

そのため、時間がかかることを前提にします。最初は「安心が欲しい」という気持ちばかりが強く、「本当の自分を生きたい」という願いがほとんど感じられない人もいます。それでも、現実生活を壊さず、学びを続ける中で、自分の中のFが少しずつ育つことがあります。

ここには、選択の自由があります。途中で「自分には合わない」と思えば、やめる自由もあります。「ここまでは納得できるが、ここから先はまだわからない」という受け止め方もできます。

大切なのは、選択肢の存在を知ることです。死や存在価値について悩んでいる人に、この方法を知らなければならない義務はありません。しかし、この方法があることを知らなければ、選ぶこともできません。だからこそ、生かされてる医学は「信じてください」ではなく、「こういう道があります。必要なら、自分自身で確かめてみてください」と伝えることを大切にします。

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第16章 どのような人に知ってほしいか

生かされてる医学は、すべての人に必要だと押しつけるものではありません。しかし、次のような問いや苦しみを持つ方には、一つの選択肢になるかもしれません。

頑張ってきたのに満たされない。人から認められても安心できない。仕事や家庭は一応うまくいっているのに、「これは本当の自分の人生なのだろうか」と感じる。慢性的な不安や葛藤がある。自分の価値を人の評価に求め続けて疲れている。老い、病気、退職などによって、これまで支えだった役割を失い、「自分には何が残るのか」と感じている。AIの発達を見て、人間の存在価値そのものがわからなくなってきた。そして何より、「死とは何か」「私はなぜ存在しているのか」を、信じるだけではなく、自分自身で納得できるところまで考えたい。

こうした方にとって、生かされてる医学は、症状を一時的に消すためだけの方法ではなく、自分の人生全体を見直す学びになります。

ただし、苦しんでいる人ほど「早く答えが欲しい」と思います。生かされてる医学では、短期間で一つの答えを与えることよりも、現実生活を守りながら、四つの方法を繰り返して少しずつ進むことを大切にします。

答えを外から与えられるのではなく、自分自身が「これなら納得できる」と感じるまで歩く。その歩みそのものが大切なのです。

* * *

おわりに 知ることから、選択が始まる

生かされてる医学は、「死とは何か」という問いから始まりました。

私は偶然の産物なのか、必然として存在しているのか。生きるとは何か。本当の私は何なのか。死ねばすべてが終わるのか。こうした問いに、宗教をただ信じることでも、哲学的な議論だけでもなく、また科学だけに答えを求めるのでもない別の方法で取り組もうとしたものです。

その方法は、医学的・科学的な生命の事実を直視すること、こころ分析によって自分の心を明らかにすること、ゼロ体験によって過去から自由になった自分を体験すること、そして独りよがりにならないようサポートを受けることです。この四つを繰り返し、理解から確信へ、確信から実感へ進みます。

その先に、生かされてる医学では、「生かされているのは医学的事実である」「限りなく優しいYuが存在する」「死は私の終わりではない」「何もない私が素晴らしい」「自分の山を登るのが人生の喜びである」という五つの発見を置いています。

しかし、この結論を他人に強制することはできません。人が何を信じ、何を学び、どの道を選ぶかは、その人自身の問題です。

それでも、選択肢は知らなければ選べません。

「死について、私はまだ納得できていない」
「社会から評価されることだけが、人生の価値なのだろうか」
「本当の自分を生きたい」

もし心のどこかにそのような思いがあるなら、生かされてる医学という一つの道があることを、まず知っていただきたいと思います。

信じる必要はありません。急いで答えを出す必要もありません。

自分自身で見て、考えて、体験して、確かめる。

そして、自分が納得できるなら、その道を選ぶ。

生かされてる医学は、そのための手引きです。

 

 

付録 最小限の用語集

F:「本当の自分とは何かわからないが、本当の自分を生きたい」と願う自分。

F5:「うまくいかないから嫌」ではなく、「うまくいったとしても、この生き方は自分の人生ではない」と感じる自分。

Yu:「ふとした優しさが好きな自分」。見返りを期待しない優しさを好む自分。また、生命の必然性と無条件・無償性から考える「限りなく優しい創造者」の名称でもある。文脈で区別する。

FYu:FがYuを見つけ、「この優しさを生きたい」と選び、FとYuが一体となった状態。生かされてる医学では根本解決の方向として位置づける。

K:人に自分の存在価値を認めさせようとする自分。社会的評価と存在価値が結びつくと苦しみが強くなりやすい。

新型ストレス:「自分を生きたい自分」と「社会適応しようとする自分」の持続的な葛藤によって生じると考える現代型のストレス。

ゼロ体験:過去に作られた自己像や思考の支配が弱まり、現在の自分を感じる体験。丹田呼吸法などを用いる。

本当の存在価値:社会的評価や能力とは別に、Yuの世界の中で「存在していることそのもの」に認める価値。

大切な注意:本書は「生かされてる医学」の考え方を一般向けに説明したものです。身体的・精神的な症状がある場合は、必要に応じて医療機関で適切な診断・治療を受けてください。

 AI 時代の健康医学・生かされてる医学

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